兎角に人の世は

個性(性格・ライフスタイル)、家風、地域性、県民性、国民性、人間性
 
これらの言葉は、ある人が、ある状況の中で選び取った行動群に見出されるパターンに付けられた名前だと思う。
 
それらのパターンというか、名前は、緩やかな論理階型(階層)構造をなしているだろう
 
例えば、あるときある状況での、山田家の太郎君と花子さんと次郎君の行動は、親の目(メンバーの一員)から見たら、それぞれ違ったように感じるのだが、隣近所の人から見たら、山田さんの両親も太郎君も花子さんも次郎君も、あるいは、太郎君のお祖父さんや伯父さんも、挨拶の仕方が同じ様に見える、といった具合に。
 
人は、何らかの共同体、集団の中で暮らしているから、ある行動を選ぶ場合、その共同体、集団からの反応を考慮に入れないわけには行かない。
 
といって、共同体や集団の要請にそのまま完全に従うのではなく、緩やかな幅があるだろう。
 
完全に従おうとすることも、あるいは全然従わない場合、軋轢が生まれるだろう。
 
完全でなくても、どんな場合であれ、人は常に自分の属する共同体や集団の要請と折り合いをつけながら生きていると思う。
 
「智に働けば角がたつ。 情に棹差せば流される。 意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」
と、夏目漱石は「草枕」の冒頭に書いている。
 
選び取る行動について、意見や感性が合わなければ、その人と対立するだろう。
「怨憎会苦」「求不得苦」という、四苦八苦も生まれるだろう。
 
だけど、折り合いをつけるしかない
ある人は、権力で押さえつけ、支配する。
 
共同体や集団からの要請も、変化したり、緩やかだったり、時間の流れがゆっくりだったりする
 
要請という言葉には、意志が含まれるようなニュアンスがあるので、相応しくないかもしれないが
人間全体に対して、地球環境システムからも要請があるだろう
 
しかし、私達が常日頃意識する要請は、やはり家族からのものだと思う
 
昔読んだ記事によると、世の中に起こっている傷害事件の加害者被害者の関係は、家族、親戚が多いという。それは当たり前の話で、日常生活で、利害が直接関わってくるのは、家族が多いからだろう。
 
自分が今抱えている問題を解決するに当たって
相手を権力で持って変える、という解決方法は、一時期はいいかもしれないが、いつか反撃が来たりする
自分が変わるとか我慢したとしても、そのことによって属しているシステム自体が変化しないと、やはりいつか無理が生じてくる。

自分と相手とそれらを含むシステムが見えていなくてはならない
 
私自身を、大海に漂う小船だなあ、とつくづく思う
時に釣り糸をたれ、時に魚になり、時に波になったりもする
 
かつて、「人と人は分かり合えないかもしれないが、響き会えることは出来る」
と表現したことがある
もっと別な表現で同じことをいえないかな、と思っていたのだが、
パターンとか冗長性という言葉を使えば、可能かもしれない
 
ともかく、「語ること」「聞くこと」が前提になるだろう
そして、そこには技術も求められてくるだろう
 
ここまで書いていて、低血糖症状がでてきたので、なんか食べることにする