天天学習

「正義、中道、民主主義、博愛を生きる」 ことは出来るだろうか?
 
太極拳の講座に参加したとき、「全身の力を抜いて、背骨をまっすぐに立てましょう」という説明をよく聞く
 
これを、ビパッサナ瞑想しながら、「まっすぐ」をさがし始めると、
どこかに「決まりきった、固定された真っ直ぐ」があるわけでないことに気づく
 
生命体である人間は、ものとはちがって、呼吸したり、心臓が動いたり、リンパ液が循環しているので、常にゆれている
 
またリラックスした状態を作るために指導者が、
「全身の力を抜きましょう」などという場合があるが
生きている人間が、全身の力を抜くことは厳密にはありえない
 
心臓も心筋で出来ていて、常に収縮を繰り返している
呼吸は、肺そのものが自身で収縮しているのではなく、
呼吸筋が収縮することによって、呼吸が出来ている
 
全身の力を抜くとは、
今の姿勢、いまの動作において、必要のない力を入れないという意味だろう
 
ところがやってみるとわかるが、必要のある緊張、必要のない緊張の区別をつけることは難しい
 
私はよく自転車に乗り始めのときのことを思い出してもらう
 
自転車に乗れる人から見れば、乗り始めの人は、無駄な緊張をしている
しかし、乗り始めの当事者にしてみれば、必要と感じて力を入れているのだ
 
普通に乗れるようになっても、例えばアクロバットで自転車に乗っている人から見れば
無駄な緊張があったりするだろう
 
クロバットで自転車に乗る必要がなければ、そこそこ力が抜けていればいいのだが
 
これが自転車に乗ることではなく、
仕事、特に生命に関わる仕事においては、そこそこというわけには行かなくなるだろう
 
太極拳では「天天学習」といい、道において、これという到達点はないという
 
「中道を生きる」とか「民主主義を生きる」とか言う場合もそうだと思う
 
私の今このときの選択は、本当に中道か、民主主義か?
と常に問いながら生きるのが、中道や民主主義ではなかろうか
 
となると「中道を生きる」という生き方ではなく
「中道ではない生き方は選ばない」という行き方になるのではなかろうか
 
常に問いながら、というのが、太極拳の基本的な姿勢だと思っているが
これは理知的で、エリート的で、万人向けとはいえないかもしれない
 
そこで、呼吸に注目する
呼吸に注目して、丁寧に動作していると、
結果的に、問いながらの行動に近づいたりする
 
太極拳といっても、武道的な太極拳あり、健康法的太極拳あり
競技会的太極拳があったりする
 
自分としては、競技会的太極拳が一番苦手だ
無論、競技会的にも出来るに越したことはないけれど
いずれにせよ 天天学習