矛盾

「矛盾」という言葉があるが
宇宙の営みには矛盾があるかどうか
 
あるともないとも言うのが難しい
 
「矛盾」という概念を創ったのは、人間だろうし
その人間の一員である私は、宇宙の営みの一部でもある
  
 「認識する」こうやって、「パソコンに向かっていること自体」が、私には不思議でならない
 
しばしば、朝目覚めたとき、生きる意味を問う、存在の意味を問う
問うているうちに、フランクルを思う
「あなたは、世界に問うているが、あなた自身が世界から問われているのだ」と自分に語る
 
メグロ鳥のように寄り添っているところに、テレビの音が聞こえてくる
世界のどこかで、テロがあり、戦争があり、人が亡くなったことを告げる
そのすぐ後に、アナウンサーは、昨日のプロ野球の結果を述べる
 
うかうか暮らしていると
刺激に対する反応 「強化」や「罰」で生きてしまう
 
私の心は安らかか? 安らかなれば、その安らかさを貪っていないか?
安らかでない人々が集まって、安らかな社会が出来るとは思わない
だから、昔から言うように、世界平和は、先ず自分が平和を実現しようとすること
 
生老病死の中で、いかに平和を実現するか?
怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五陰盛苦
 
父が亡くなり、母が亡くなり、死というものをわかったつもりで居たが
ぜんぜんわからない
 
20歳代のときタイで赤痢で死に掛け、今年の3月には、貧血でダウン寸前になった
いつか将来、それに近いことが起こるだろうし、
ぜんぜんこれまで味わったことのない体験になるだろう

極度の貧血になって、このままではいよいよ死ぬなと思ったとき 
自分の意志の作用だけでなく、自分を含めている生命の営みの作用のようなものを感じた
 
「かのように」ということの捉え方が変化した
神は存在しないと思ってはいるが、あたかも存在するかのように暮らす
という風に「かのように」をとらえていたが
神が存在するか、存在しないか、わからない、決められない
だから、存在するかのように生きる、存在しないかのように生きる、という風に変化した
ただ、神=髭のはえたおじいさんとは思わない
 
まあ、生きている限り、色々解決しなければならない課題は次々やってくるだろうが
今までの「苦しみ方」はしないだろうと思っている
但し、うかうか暮らしていると、よく似た過ちは犯しそうだ