角なくも真ん丸は無し浜の石 碁石にならずもそれぞれの味

2日前から、自営業をしている知人の夫婦が家庭内別居しています。
事の発端は些細なことです。
 
奥さんが経理を担当しています。数か月前に、ある仕事に対する支払いの振り込みがあって、夫に伝えたそうです。数か月たって、夫は支払いがまだだと思い、再度請求したところ、すでに数か月前に支払っているとの返事。家に帰ってから、「数か月前に支払いの振り込みがあったのに何故知らせなかったのか」と夫はいい、奥さんは「伝えたわよ」ということで喧嘩になったそうです。
  
 日数の長い短いはわからないけれど、些細なことが発端だから、そのうち仲直りはすると思うのですが、些細なことがきっかけではあっても、根が深い場合だってあります。
 
 例え根が深い場合であっても、深刻とはまた別のことです。
 
 何でも言い合える、分かり合える夫婦、というものを、一応若い夫婦は願うのではないでしょうか。30年くらいたてば、言わずとも相手の考えていることが分かるようになるよ、という先輩夫婦もいたりします。
 
 年齢と共に、人はそれなりにそれぞれ角が取れてくると思います。でも決して真ん丸にはならないと思います。ですから、数十年暮らしても、ぴったし重なることはないように思うのです。
 
むしろ、角は取れる一方で、形はよりあらわになる人もあるように思います。
 
もっともっと長い時間をかけると、真ん丸に近づくのかもしれません。
 
それで、大人とか健常とかいう表現は、やめにしたほうが良いように思ったりします。
 
人はそれぞれ、一生、発展途上と思うからです。
 
人は、おそらく人それぞれのこだわりを抱えて生きるのだろうと思うからです。
 
ぴったし重なることを目指したり、理想像を決めつけると、かえって苦しいと思うのです。
 
「角なくも真ん丸は無し浜の石 碁石にならずもそれぞれの味」