野は市よりも豊かにて

今年2012年の5月に
原発を拒み続けた和歌山の記録」
紀伊半島にはなぜ原発がないのか? 
「いのち」の源―海・山・川を守り未来へつなげた
住民たちと関西電力との闘いの軌跡 寿郎社刊 が発行されました。
 
歴史を振り返ると
昭和56年(1981)6月に、「和歌山県原発反対住民連絡協議会」が結成されました。
 
長い間、同協議会の会長を務められたのは、昭和51年に結成された「紀南原発反対協議会」の会長を、昭和55年(1980)から務められた竹中初男氏(1915大正4年生まれ)です。
 
竹中初男さんは、那智勝浦町八尺鏡野(やたがの)で、農業を営んでいました。
どちらかといえば、自民党よりだった竹中さんが、反対運動に関わり、会長になっていった過程は、簡単に214頁「内を責めなさんな―竹中初男さん」に書かれています。
 
昭和56年3月22日の三重県熊野市反原発集会での、竹中さんのメッセージが最近手に入ったので、ここに書き残すことにしました。
 
< 寒かった冬も過ぎ、暖国の我が郷土に山桜が咲きはじめました。この豊かな郷土を放射能の汚染の土地にしてはならない―この悲願にもえてお集まり皆さん、ご苦労さんでございます。
 
この反対集会に今までに、4,5回参加させて戴いて居りますが、皆さんの御顔の中にひたむきな気持ちを感じ、我が郷土熊野に生きる者の連帯の責任として、私自身また勇気づけられ、この運動を続けさせて戴いて居ります。有難う御座います。
 
13年前私は、区長などの役職にあり、ただ漫然と当局の言うなりに推進側にありました。
そんな私達の前に、隣の町の太地町の婦人会の方々がビラを配って呉れまして、その熱心さに感心致し、そして我が町だけに止まらぬ放射能のおそろしさを知らされました。そして町の誘致決議を皆と一生懸命で白紙に戻して以来十年余り、科学者の先生方にますます原発のこわさを知らされ、一昨年のスリーマイル島での大事故で、反対させて戴いたことが、本当に良かったと思ったものでした。
 
しかし、昨今又、石油危機だ、国策だと言われだし、スリーマイル島では死者が出なかったなどといわれ、莫大な金をやると、金の力に物言わせての推進であります。
 
しかし、要するに札束であります。札束攻勢といわれますが、札束だから攻勢ができるのであると思います。
我々は、永遠に価値あるこの土地を、この海を、インフレの札束にかえてはならない。子孫の為、永遠に清く美しく守り継がねばならない責務があると思います。
 
科学者の先生方は、科学者としての良心から止むに止まれず、何の補償もない原発の問題に真剣に取り組み、あえて困難をのりこえて、その原発基地の汚染の実態を、調査報告されておられます。安全だといわれる科学者もありますが、我々は其の実態を責任を以て受け止めて今後に処していかねばならないと思います。
 
昨日はお彼岸でした。この豊かな土地につましく生きて八十路過ぎるまで長生きされた我が両親を偲び、更に子や孫に思いを致す時、大量生産、大量消費、環境汚染、又有り余る物質の中の心の貧困、増加するヘロイン常用の青年、更に中学生の暴力など、ひずみのでているこんにちの世の中、豊かさの持つ意味を今一度考えなおさねばなりません。
 
この豊かな自然の中に生を受けた我々、いま農業危機、漁業不振といわれておりますが、この土地を捨ててどこにより以上のところがあるでしょうか。
 
歴史を振り返っても、農業、漁業が貧困の中で、長く栄え、民生の安定したためしは、古来ないのであって「その基を養わざれば、末に断じて栄えざるべし」と、先覚者が言われております。
 
この豊かに生きる農林漁業者が、補償をもらわねばならない、土地が汚染されても金がもらえたらいいと思うほど貧しいなれば、そのこと自体が問題です。
 
乏しい中で、お互いに分け合って生きるその中に、生活の実感があり、連帯の喜びと感謝が養われると思います。
 
どうか皆さん、向こう三軒両隣、自然の豊かさの中に、平和に生き続けた祖先の生活を見直し、喜び合って、この土地を守らして戴きたいと思います。
 
どうか、皆さん頑張って下さい。有難うございました。

紀南原発反対協議会 竹中初男  >
 
私は
佐藤春夫の言葉「野は市よりもゆたかにて」
<野>つまり、熊野、田舎は、<市> 都会より豊かなんだよ
中央の豊かさは、地方があってのことだよ
ということばを、竹中さんより教わりました。
 
「明日来ると 当然の如 進む世の 隊列乱す 子らに寄り添う」