諸法無我 Aにおいて、B性がある。

例えば、「アブシシン酸は、有益である。」も、「アブシシン酸は、有害である。」も、一行の文です。言っている意味が対立し、この後同意や修正に至らなくとも、発言者同士の間では会話・議論が、一応成り立ちます。

 

それは、一文(発語・パロール)の意味内容が対立していても、その一文が従っている文法・国語(ラング)が、共通だからです。

これは、一文の意味が対立していても、その前提・世界観・枠組みは、共通、あるいは同じ枠内の見方に縛られているともいえます。

 

同じ枠内とは、例えば、「Aは、Bである。」という構文は同じです。「主語+述語」という構文も同じです。しかし、この枠については、「Aは、Bである。」「主語+述語」という構文とは違う文法の国語を知って、初めて見えてきます。

ここまで読んでみて、「Aは、Bである。」「A is B」「A=B」以外の構文を、あなたは思いつきますか?

 

大雑把に言えば、現代日本語も、中国語も、英語も、フランス語も、「A is B」の構文をしています。「Aは、Bである。」「A is B」の構文を、日常的に使っていると、「A」が、初めから「他から独立した永遠の実体として存在している」ように見えてきます。

 

「私」「自己」「自我」「肉体」「人間」といった「A」が、その代表的な例です。「私は、男だ。」「私は、日本人だ。」「私は、和歌山県人だ。」「肉体は、精神とは別だ。」などなど。

 仏教の開祖、釈尊は、「諸行無常」「諸法無我」と述べました。「自己という、永遠不滅の実体がある訳ではない。」 釈尊が使っていたであろうマガダ語、パーリ語サンスクリット語は、「Aは、Bである。」という構文にはなっていません。敢えて、日本語を使って表現すれば「Aにおいて、B性がある。」という構文になります。

これは、「A」という実体が先ずあって、「B性」という属性がある、ということではなく、「A」は、様々な属性群によって、縁起している「現象」である、ということになります。

日本語も、戦前、そしてさらに明治以前は、「Aにおいて、B性がある。」という意味で、表現としては、簡単に「A(において)は、B(性)である。」という口語を使っていました。例えば、食事に行って、「私は、天婦羅定食だ。」という表現がそうです。

 

文化としても、例えば共同体で、何か重要なことを決定するとき、最初から「永遠不滅のA」を前提するのではなく、「A」についての、属性の事例を次々と述べていって、「A」という全体像を作っていく方法だったようです。宮本常一著「忘れられた日本人」対馬にて 寄り合い にその様子が書かれています。 <話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。>

生活する共同体の規模が大きくなり、スピード化した現在のグローバル社会には、そぐわない方法かもしれませんが、グローバル社会の方も、方向転換が必要でしょう。 すでに始まっているかもしれません。あまり、見えていないだけで。