他力の大地に、自力の花が咲く


「自力他力は、初門のことなり。自他の位を打ち捨て、唯一念、仏になるを他力とはいうなり。」一遍上人語録 巻下 十八

「他力称名の行者は、此身はしばらく穢土にありといえども、心はすでに往生を遂げて浄土にあり。」一遍上人語録 巻下 三十九

Shema Yisrael Adonai Eloheinu Adonai Echad 申命記6章4節

現成公案 われに時あるべし。われすでにあり、時さるべらかず。 只管打座 「正法眼蔵」 道元


 私達現代人は、ともすれば、この世界の成り立ち・変化を見るとき、二つの独立・対立する要素に分けて、その集まりと見がちです。
 左右、上下、明暗、善悪、男女、老若、原子と電子、外と内、肉体と精神、始まりと終わり、自他(主客)、敵味方、成功と失敗、苦楽、正常と異常、生死、独立と依存


 ヒトの成長とか課題の解決、信仰を考えるときも、対立する二元でとらえがちです。
 自力と他力、性善説性悪説、意志と環境、信と不信(疑)、競争と協力


 自力を支持する人は、他力を批判し、他力を支持する人は自力を(自力的に)批判しがちです。
 そして、近現代人は、どちらかといえば、自力を支持する傾向にありました。
 例えば、自然界に多く見られる困難、天災とか病気を、自力である知性や科学技術で克服しようとしてきました。 しかし、私たちヒトは、天災のすべて、病気のすべてを克服できたわけでなく、それどころか、その科学技術により、新たな困難を生み出しました。 公害、自然破壊、原発事故、医原病、経済格差など。


 ある人々は、自らに問います。「もともと課題を解決しようとしたことなのに、どこが間違っていたのだろう?」


 そうやって問いかける人々の中で、さらにある人々は、問います。
「そもそもの前提、考え方の基礎が、間違っていたのではなかろうか?」と。


そもそもの前提、考え方の基礎とは、二つの独立・対立した要素に分けて、この世界を見ることです。


それは、別の問いかけになって問われます。
「そもそも、ヒトに完全な自由意思はあるのだろうか? 
自由意思だけで、課題の解決はできるのだろうか?(例えば、依存症)
 自分(自己・主体)と自分でないもの(客体・環境)を、分けることができるのだろうか?」


この問いかけは、止観瞑想、止・シャマタ瞑想によって生成した集中力の持続状態でもって、具体的事例を検討しながらじっくり考える観・ビパッサナ瞑想においてのテーマによく選ばれます。


 「人間は万物の霊長である。」という世界観があります。「主体性」「自己責任」「健康増進」「不老不死」「修行による解脱」「食糧増産」「啓蒙」「弱肉強食」


 それらは、「ヒトには、自我・自己という主体があり、ヒトは、自由意思でもって、人生を切り開いていく存在である。」という人間観が、暗黙の前提となっています。


 「自力と他力は、相いれない二つの立場」という見方は、適切なのでしょうか?
あるいは、「有神と無神」、「在神と不在神」は、相いれないでしょうか?


 現にある私たちのからだ、生命活動から考えてみましょう。
 ヒトが生きていくには、なんといっても、食べ物、水、空気が必要です。
 食べ物、水、空気の摂取のため、私たちは、私たち自身の頭・自由意思を働かせ、肉体を駆動します。


 摂取以上に大切なこと、それは、生命活動で生まれた老廃物を「排泄」することです。


 例えば、水と尿。水を3日間以上摂らないと、生命の危険があるといわれますが、尿だと3日も排泄しないと尿毒症になり、生きていけません。 この排泄において、どれほど自由意思が関わっているでしょう?


 かねてから不思議に思っていることがあります。
赤ちゃんは、ときところかまわず、排便、排尿します。しかし、大人になるとおねしょをしなくなります。
そのメカニズムが不思議でなりません。子どものころは、夢と現実の区別がつかなくて排尿してしまうのに、大人は、夢を見ている最中、夢と現実を子どもと同じように区別がつかないのに、排尿だけをどのようにして区別しているのでしょう?
 自由意思と自由意思でないものの境界がよくわかりません。


 食べ物、水、空気以外にも、生きていくのに不可欠なものことがあります。光、大地、闇、コトバなどです。


 「コトバを使って話す」ことこそ、自由意思の表れのように思ったりしますが、実はその逆です。


 ヒトには、それぞれ母語があります。今この文章を読んでいるほとんどの人の母語は、日本語でしょう。
 では、私たちはこの母語を、私たちの自由意思で選んだでしょうか?
 母語で使われるコトバの意味や文法の形成に、私たちはどれくらい自由意思でもって関わったでしょうか?


 自由意思で使っていると思っている母語こそ、まるっきり自由意思で選んだわけではないのです。
 コトバを使うことにおいても、自由意思とそうでないものとの境界が、あいまいになってきます。


「歩く」ということを観察したとき、ヒトなら、世界中同じように歩くとおもったりします。
しかし、山岳であるか、平地であるか、農耕文化か狩猟文化であるかによって、歩き方は変わります。


排泄、歩行、母語から見えてくるのは、自と他は、対立しているとは限らないということではないでしょうか?


 「他力という大地の中に根を伸ばし、自力の花が咲く」、私にはそんなイメージがあります。
 この世界は、対立した要素で成り立っているという見方が、苦しみを生み出しているのでは、と思うのです。