一体感について  生者として、死者を悼み、尊ぶ

 NPO熊野みんなの家は、那智勝浦町で最大の被害があった市野々区にありますが、家も道路も無事でした。 色々お心遣いを頂きありがとうございます。
                         2011.9.14 阪口圭一

○はじめに
「一体感」という「言葉」があり、「体験」があります。人と人、あるいは生命体との一体感、人と道具、人と建造物との一体感、人と自然との一体感など、人生を生き甲斐たらしめる様々な喜ばしい体験のひとつでしょう。スポーツ、仕事、芸術活動と鑑賞、瞑想、祭事、儀式、式典など、一体感を味わう場面も色々です。

そういった体験ではありますが、一体感という言葉の意味内容は、使う人によって同じではありません。また、何の努力も無しに、あるいは条件なしに得られるものでもないように思います。一体感を味わうには、一体感を味わう適切な努力や所縁が必要と思われます。

では、どのような努力が適切な努力なのか、所縁なのか、また、一体感は喜ばしい体験であるとしても、人生の最終目標とすることができるのかを考えてみたいと思います。

○「死と出会い、死を乗り越える」
 いつの時代であっても、自分や愛しいものが、いつか必ずこの世を去るという事実、つまりいつか死ぬという事実をどう乗り越えるのかは、ひとりひとりに与えられた課題です。

 「諸々の元素に還るのだ」という人もいれば、「一期一会」を常に思う人もいます。「天国に召される」という人がいて、「もともと実体としての自我などない」という人がいて、「肉体は滅びても、永遠の自我が転生する」「名をあげ、後世に残す」という人もいます。

 「死を乗り越える」その道として、太古から行われてきたことのひとつが、生者が死者を悼み、尊び、死者と一体になることでした。これは、近代人が失いつつあるコミュニティーの維持と再生の原点のひとつでもあると思っています。
 
○「一体感」
 大人であれば、一体感という言葉を知っているでしょうし、自身がなんらかの体験し、その体験に一体感と名付けて使っているでしょう。しかし、言葉は同じ「一体感」であっても、その内容まで同じであるかどうか確かめようがありません。
 
 一体感に対して、「それは一時的なことであり、対象もまた限られている」と感じている人もいれば、「いや、一旦味わうとそれはいつまでも続き、一切の事物との間に感じるのだ」という人もいるでしょう。
 
 一体感を、自分と対象の間に境界線がないように感じる状態と仮に定義づけることにしましょう。
 普段、私達の日常生活の中では、私と対象の間に、また対象と対象の間に、はっきりとした境界線があるように感じて暮らしているのではないでしょうか?
そして、その境界で区切られて囲まれたものひとつひとつに私達は名前をつけています。

 小中高校学生の頃、私は、「世界の側に確固たる境界線がまずあるのだ。そして、独立した事物が集まってこの世界を作っているのだ。」と思っていました。
 
 しかし、私達が世界をどのようにして認識しているのかを学ぶにつれ、その認識に「言語」が大きな役割を果たしていることを学ぶにつれ、世界の境界線がだんだんあやふやになっていきました。「確かに、境界線はあるように思う、しかし、それは、私達人間の側が、生きていくために仮に引いた線だ」と思うようになりました。
 
 例えば、「心臓と肺」という言葉を使う時、私達は、心臓を一つの働きをもった臓器として認識します。ところが、「左心室と右心室」という言葉を使う時、その一つの心臓に境界線が生まれます。手足という言葉があり、手と足と心臓は、同じではありませんが、心臓やからだ全体の働きなくして、「からだから独立した手」がある訳ではありません。同じように地球から独立した人間、太陽系から独立した地球があるのではありません。

○「空」
 かつて私は、区別のある世界から区別のない世界へ突入することが、一体感の世界、悟りの世界、自他一体の世界に入ることだと思っていました。
 今は、区別のある世界と区別のない世界は、別々の世界ではなく、それこそ、区別のある世界と区別のない世界は、一体の世界と思っています。
 
 境界線というものが、確固たるものとして、この世界にあるのではなく、(また無いのでもなく)私達人間が、境界線を「言語」によって、仮説(けせつ)として引いているのだと思います。
 
 ですので、一体感と非一体感(個別感)もまた、別々の感覚ではなく、同時性の感覚だと思っています。非一体感(個別感)が無くなって、一体感が生まれるのではなく、非一体感があるままで、同時に一体感や充実感が味わえるのであると。
 
 私がここで言っている一体感と、あなたがいつも使っている一体感という言葉の内容は、言葉が一緒であっても、中身は別かもしれません。それでもいいのです。
 別々であって、一緒でなくて、それでいて、やはり一緒だと、私は思っています。
 
 非日常と日常、ハレとケも、対立しているのではなく、一緒ではなく、かつ一体だと感じています。
 
 となると、生と死も、一緒ではなく、かつ一体であります。
 ひとつに、「死」をおもうことができるのは「生きている」からです。
 
 日常の何気ない変わりない出来事の中に、同時に、非日常性、ハレ、永遠性があります。
 
一体感は、人生の最終目標ではなく、日常の中にあらしめることであると思っています。それは、「常に、死者を悼み、嘆き、悲しみ、尊ぶことによって、あらしめる」と思っています。「死者」を悼み、嘆き、悲しみ、尊ぶのは、「生者」の務めと思います。