仏教学徒はいう
「実体としては存在していなくて、縁起性によって存在しているものを、実体として存在していると思いこみ、それに執着し、好悪の感情を持つから、苦しむ。」と。
それが、縁起性のものごとであっても、縁起性のものごとと認識していても、そのものごとが、具体的な効果作用を持つことは、仏教学徒も否定しない。
仏教学徒の多くが、この地点で、「私は、仏教の理を分かった。」と言ったりする。
しかし、日常を生きるものには
その効果作用を、如何にして害のないものへと転換するかの、具体的な智慧が必要となる。
具体的な智慧のひとつが、「人間コミュニケーションの語用論」や「地域通貨」であろう。
「一切は空だ。」「縁起だ。」と思う(哲学する)だけでは、その智慧は身につかない。