回心

苦しみはどのようにして生じ、どのようにして解決、滅せられるか、という考えは色々あります。
 
仏教は、基本的に縁起説です。 縁起の中に、十二支縁起説があります。
しかし、十二支縁起説の内容については、諸説、色々な解釈が生まれています。

無明→行→識→名色→六処→触→受→愛(渇愛)→取→有→生→老死

諸説とも、順番は同じですが、言葉の意味や、前後の関係の捉え方は色々です。

例えば
無明によって行(意志)を起こす。その行が六処の分別作用を惹き起こすことになる。これがさらに肉体と心の具体的なはたらき(名色)を生み出すことになる。六処は外界のものと接触し(触)、ものを感受する(受)。六処はそれぞれ感覚して、心の中にそれら外界のものに対して欲(愛)をもつようになる。欲をもつから執着(取)が生まれる。心のはたらきが執着するところに一つの境界がつくられる。この執着が存在(有)をもたらす。その存在がいかなる形にか次の生をもたらすことになる、と説明されていたりします。
 
 瞑想実践がないと、何のことか分かりづらいです。
 
 ともかく、感覚が、感覚対象から刺激を受けて、そこに名称が生まれます。いとも簡単に名称が生まれる、と表現しましたが、その過程も複雑だと思いますが、今はその過程をブラックボックスとして棚上げしておき、名称が生まれる時そこに快不快が生まれることを観照しましょう。
 
 その快不快の判断に従って、次の行動が選ばれます。
 
 名称が生まれ、快不快が生まれ、行動が選ばれるその内容は、人によってまちまちです。
 
 道を歩いていて、向こうからなにやら動くものがやってきます。色形姿から、それは「人間」である、「女性」である、「若くて美人な○○先生」である、などの名称をつけます。快と感じより快と感じたい為に、近づいて行って「おはようございます。」と挨拶する行動を選択するかもしれません。隣にいた同級生のA君は、○○先生と分かった瞬間は快であったけど、ライバルも多く胸苦しくなったりするので、うつむいて通り過ぎるかもしれません。B君は、○○先生と分かったとたん、提出していない宿題を思い出し、違う通りに道を変えるかもしれません。
 
 何に対して快と感じ、あるいは不快と感じ、そののち選ばれる行動の内容は、人によって特徴ある冗長性、パターンが見られるようになります。 遺伝的に生得的なものや、学習して身につけたものなど組み合わさって、それらを性格とか嗜好、ライフスタイルとか、信念、世界観とかいったりします。
 選ばれた行動が、世間と添わない時苦しみを生んだりしますし、添いすぎても苦しみを生みます。ほどほどだといいのかというと、そうとも限りません。
 一般的に、快だと近づこうとします。不快だと遠ざかろうとします。
 いずれにしても、苦しみを生んだりします。
 
 でも時に、不快でも近づくことがあります。
 不快の後に快がやってくるという理由で、不快に近づいたりする時です。
 歯医者に通う時などがそうです。
 
 それとは違う選択があります。
 不快といったんは判断するのですが、その判断を疑ったり、保留したり、ひっくり返したりすることにより、不快が瞬時に快に変わったりします。
 
 仏教の瞑想実践者は、本来快でも不快でもない、と捉え、接するのですが、修業が足りないと、持続できません。

 不快と一旦判断したことを、瞬時に快に変えてしまう、それはスピリチュアルな回心でよく見られることです。
 
 しかし、これとて、万人向きとは言い難いことです。
 
 朝起きて聖書を読み、昼は疲れるまで働き、夜は祈りて眠る。
  (羽仁もと子著作集 第16巻 みどりごの心 巻頭の言葉)

こういう暮らしがあって、できることでしょう。