苦しみの時代性、文明文化性

 ある人が、HPの中で、「いつの時代も、人は、現代人の私たちと同じように、夫婦関係のことで悩み苦しみ、子育てで悩み苦しみ、仕事のことで悩み苦しみ、死を目の前にして苦しんできた。」という表現をされていました。
 
 確かに、その時代時代、文明に、現代人の私たちが使う「苦」という同じ単語や同じような概念に相当する言葉があれば、現代人の私たちと同じように「苦」を味わったと思います。
 
 しかし、「苦しい」ということは同じであっても、何についてどのように苦しみ、どのように解決したかは、まったく同じとは言えず、時代性、文化文明性があると思います。
 
 例えば「疎外」という言葉があります。いつの頃からあった言葉なのか私はよくわかりませんが、他者をあるいは自分自身を、目的達成の為の道具にしてしまうという意味での疎外なら、時代性、文明文化性を超えてあったと思います。しかし、自分の作りだした道具に、やがて自分自身が道具のように扱われてしまうといった疎外は、機械文明や分業の発達、銀行制度、利子制度のあるなしで違ってくると思います。
 
 「子供」という言葉は、随分昔からあったかもしれません。しかし、「子供」を「学校」に通わせるといった営みは、昔からあった訳ではありません。ですので、登校拒否は、現代人だけの概念でしょう。「夫婦」にしても、「国家」に保証された「夫婦関係」というのは、「国家」が生まれて以後の概念です。
 「森」という言葉も随分昔からあったでしょう。しかし、「自然保護」という言葉も、現代人だけのものではないでしょうか?「国破れて山河あり、城春にして草木深し」とは昔のことで、劣化ウラン弾が使用された土地とか、原発事故後は、山河ありとは言い難いです。
 英語の例ですが、「wood」と「forest」では、大きさだけでなく含まれる意味が違います。
 
 現代人が「人間」という言葉に抱く概念もまた、ここ400年ぐらいの年月をかけて、「国家」や「理性」「啓蒙」あるいは「科学」という言葉とともに作ってきたものだと思います。
 
 ですので、ただ単に昔に戻る、ということでは、私たちが抱えている問題は解決されないように思っています。
 
 本棚の中の、G.ベイトソン著 精神の生態学 下 思索社 昭和62年(1987)刊
が目にとまったので、パラパラ頁をめくりました。
 
「 私の見るところ、この物語はトランス*コンテクスト・シンドロームの発生にまつわる二つの面を明らかにしている。
ひとつは、ある哺乳動物を、別の哺乳動物との重要な関係のあり方を把握するための規則を誤解するような状況に追いやることで、激しい苦痛感と不適応症状を誘発しうる、ということ。
 そして、もう一つは、そうした病変への落ち込みをすり抜けた、あるいはそれに耐え抜いた動物にあっては、創造性というものの促進が起こりうる、ということである。」397頁
 
 地震津波原発事故その中にどのようなコンテクスト・文脈を見出しているかは、人それぞれでしょう。 
 半減期が2万4千年の放射性物質も放出されましたが、それでもやはり、創造性というものの促進が起こりうるでしょう。