一切皆苦と身に沁みたら生き方が変わる

 19歳の頃、縁があって泊めさせてもらった禅寺で、食事の時に「君は仏教とはどんな教えか知っていますか?」と尋ねられました。答えに詰まっていると、「四聖諦八正道ですよ。高校の倫理社会の時間に習いますよ。」といわれました。
 四聖諦 苦諦集諦滅諦道諦 あるいは四法印 一切皆苦
 その後、本格的に止観瞑想を学び、瞑想と現実世界の実践の中で、なるほど「一切皆苦」と思うようになりました。そして「一切皆苦」と認識することが、ほんとは社会生活の基本ではないかと思うようになりました。少なくとも仏教徒であるならば。
 原始仏典の中で、「一切」とは「色受想行識」であるといわれています。「色」「受想行識」とは今風に言えば、「外側の世界とそれを認識することによって生まれる世界」「存在と認識」だと思います。
 その後、認知心理学や科学哲学を学び、人間の認識の不完全性を思うようになりました。

 人は一人では生きていけません。何らかの集団、いくつかの集団に属して生きています。その時、集団としての意思決定が必要とされます。
 小学校以来、それは結局多数決で決めること、と思い込まされました。
 まるで、多数決が最上の決定方法であるかのように。民主主義であるかのように。
 
 小学校以来、試験を受け続けてきて、出題された問題には、必ず正解があるという思い込みも受け付けられました。

 集団、コミュニティのある処、必ず集団として何かを決めなければならないときがあります。その時、多数派と少数派に分かれます。

 強引な多数決社会の中では、少数派は新たなコミュニティ・集団をつくったりします。
 しかし、それもまた集団である限り、多数派と少数派に分かれます。

 のちに、ハワイでのホ・オポノポノとか宮本常一氏著書から「寄合」のことを知りました。

 ホ・オポノポノや寄合では、参加メンバーが、自分の判断の限界性、不十分性を認識しています。

 一切皆苦とは、受想行識=我々もまた苦=不十分=不満であること、限界があるという認識だと思います。