ウクレレを練習しながら 上達について考える

「寝る子は育つ」という言葉があります。寝ることだけで、子供が育つ訳ではないことはもちろんです。その真偽はともかく、かつて心理学の教科書には、狼に育てられた人間の姉妹、アマラとカマラ(の物語)がよく取り上げられていました。推定、1歳と8歳と思われる彼女達は、発見された時、二足歩行ではなかったそうで、言葉も話せなかったと紹介されています。狼少女の例は極端で、真偽が議論されていますが、同じ人間に生まれながら、ある人は大リーガーになり、ある人は鉄棒の懸垂ができなかったりします。ある人は、ピアニストになり、ある人は音痴で人前で歌を歌えません。眼を昆虫に移せば、青虫がさなぎを経て、蝶になります。
人間(生活体)が成長する、発達する、上達する、あるいはもっと長い目で見て、進化するとはどういう仕組みになっているのでしょう?生物学的なプログラムがあるのでしょうか?新たに創造されるのでしょうか?それは、永遠の謎かもしれません。せめて、現実的になにか楽器を演奏したいとか、絵を描きたい、何らかの能力を育てたいという思いを実現する手助けになる「成り立ち」の仮説と技術を見つけたいものです。一緒に考えて探ってみましょう。

 私は今ウクレレを始めて、約7カ月になります。通信制の大学生でもあります。自分自身を振り返って、若いころよりも55歳を過ぎた今のほうが、読解力や上達が早いと自分では思っています。普通は、年をとれば遅くなると思います。ひょっとして、若いころ余りにも理解や上達や会得が遅すぎたのであって、今がやっと人並みなのかもしれません。他者との比較はよくわからないのですが、自分と自分を較べて違うと感じています。それは、一つに、瞑想を知ったことと、グレゴリー・ベイトソンの学習理論、学習階層理論を知ったことが影響していると思います。

 若いころは、「下手な鉄砲も数撃てば当たる」方式で、やたらめったの練習をしました。
今のやり方はそうではありません。丁寧に観察し味わい、「差異を見つける」、あるいは「差異を創造する」ということを第一においています。練習中、間違えば、駄目だなあと落ち込むのではなく、そもそも間違いとは何か、失敗するとは何か、成功するとは何かを瞑想します。これは間違いである、失敗である、あるいは成功したという判断・認識はどのようにして生まれるかを観察します。皆さんどうでしょう?「ああ失敗したな」という判断はどのようにして生まれていますか? 有名な演奏家や歌手でも、ステージで失敗します。でもそのことに気付く人と気付かない人がいます。気づいている人と気付いていない人の違いはなんだと思いますか?「<違い、差異>が分かる人と、分からない人の差」です。ある目標やプログラムがあって、その通りにならないことが失敗です。目標やプログラムのない人には、失敗が分からない、あるいは失敗がない、認識できません。ですので、よく親御さんが子供の部屋を見て、「片付いていない」といったりしますが、子どもと親との間で、片づけに関する共通のプログラム、目標があれば、片付いている、片付いていない、できている、できていないの話ができますが、共通の目標がないと、実は話し合いになりません。しかし、多くの親は、共通のプログラム、目標があるかないかを確かめる前に、自分のプログラム、自分の目標を基準にして判断し、親子の対立になったりします。親子でなくとも、何かできる人は、そのできている自分の目標や基準を一般的な基準にしてしまいがちです。ともかく、ああ失敗したな、とかできていないなと認識するには、先ず目標をもつこと、差異を見出すことが必要ということです。(話が飛ぶようですが、フロムは仏教の四聖諦では、第一諦の苦諦、一切皆苦の認識が一番難しいと言ったそうです。)
 目標・プログラムがあってこその差異です。目標やプログラムは、具体的であることが望まれます。プロのピアニストと自分の差異は明らかです。あんな風に弾けるようになりたいな、という目標は確かに上達の原動力になりますが、具体的に今どこをどうすればプロが弾いているように少しでも近づけるかについては、もっと具体的なプログラム・目標と現実との差異の認識が必要です。(仏道では、聞く、思う、修めるの聞思修三慧という考え方があるそうです。)

 では、上達する、成長する、成功するには、差異をできるだけ細かく見出していけばいいかというと、そうでもありません。「差異」の次には「階層性」ということがあります。

 「賢すぎるロボットは動けない、役に立たない」という事例があります。差異を感じ取り、沢山の情報を手に入れても、情報処理に時間がかかってしまうと、情報量の多さは役に立たないというのです。私はデパートの買い物を例に階層性の話をします。余り利用していないスーパーマーケットへいって買い物をすれば、いつもいっているスーパーで買い物をするより、時間がかかります。品物の置いてある場所がつかめないからです。いつもいっているスーパーだとどこに何があるか分かっています。これが、「差異が分かる」という事例です。次に「差異の差異、つまりメタ差異」が分かるという例がデパートでの買い物です。大体デパートでは地下に食品売り場があります。より細かくどこに何が売ってあるかを知ったとしても、地下食品売り場で、鍋は売っていません。紅茶と砂糖の売り場の違いを見出すことと、食品と食器の売り場の違いを見出すことは、同じく違いを見出すといっても、階層が違うということです。どんなに、詳しく探しても、食品売り場では鍋は見つかりません。食器売り場で、シェフを見つけることもできません。
 
 人間の成長、何か趣味や芸事の上達など、この階層的なジャンプが必要です。グレゴリー・ベイトソンの「精神の生態学」にこの階層性のことが詳しく書かれています。(リンゴを買う時、フジと王林とどちらを買いますか?という質問には答えられます。しかし、しばしば私達は、玉ねぎと中華料理ではどちらが好きですか?という類の質問をしたり、考え事をしたりしているのです。ダブルバインド。)
 今までやってこなかった動き、指使いを新たに獲得するため、やたらめった動いて、たまたま成功して、又やたらめった動いて、またたまたま成功して、と繰り返して、ある動きを定着させるという試行錯誤も大切でしょう。試行錯誤を観察していますと、それまで獲得していたものをいったんは捨てる、という過程が必要なようです。むしろ、失敗するとは、捨てられないからのようにも思えます。精神の生態学には、捨てることによって、ジャンプすることがイルカの学習の例で詳しく解説されています。(道元禅師は、仏道を習うとは、自己を習うことである。自己を習うとは、自己を忘れることである。自己を忘れるとは、万法の証せらるるなり、つまりすべての存在によって生かされていると知ることだ、と述べています。自力と他力本願、つい同列に並べてしまいますが、実は階層が違うように思います。)

ウクレレを弾きながらというより、詰まりながら、以上のようなことを考えています。