差異を見出す 差異を捨てる そうして脳地図を書き換える

仕事、芸術、スポーツなにごとであれ
更になめらかで適切な動きを生み出すには
入出力の情報群の中に「差異を見出す」ことが必要で
同時に「差異をとりあげない」ことも必要だろう
 
このことも、これまで表現を変えて何度か書いてきた
絵を描ける人は、ボタニカルアートのような細密画を描くことも
同時に、絵手紙、イラストのような略画も描くことができる。
 
やってみればわかることだけど
差異を見出そうとすれば、いくらでもといえば言いすぎだけど
見出すことができる。
その過程の中で、より分けるべき差異とより分ける必要のない差異
差異についてのメタ差異が見えてくる。
 
つまり差異の中に階層性を見出すことも大切であるということだろう
 
そういった差異を見出す練習になるのが、
サマタ(シャマタ)、ビパッサナ−瞑想
 
D.キャプラン著 アレクサンダー・テクニークにできること 誠信書房
には次のような記述がある。

<踊りや演奏などで要求される特有のかたちにあまりとらわれず、意識と身体をひとつにすることに気持ちを集中すれば、技術面でも芸術性においても隠れていた能力をより一層発揮することができるということです。アレクサンダーはこのようなやり方を、結果よりむしろ方法に気持ちを集中すること、と表現しました。>
 
<成果より過程を大切にしてほしい>
 
<練習しようという気持ちを意図的に押さえることで、これまでの習慣が即座に現れるのを防ぎ、新しい身体の使い方が現れるのを促すのです。>(189頁)
 
アレクサンダー・テクニークやフェルデンクライスメソッド、野口体操を参考にして、毎朝シルクの絨毯の上で、赤ちゃんに還り、今までしたことのないような寝返りを意識的にしている。

色々な人が書いている本は、動きのアイデアの参考としてはとても参考になるけれど、書かれているモデル通りに動くとなると、自分にとっては、余り発見に繋がらない。

 自分でその場で考え出し、躓いて、工夫する、その過程が大事だと思っている。
 
 もちろん、昔から武道には、守破離という考え方があり、守つまり、モデルの通り動けるようになることは大事である。
 
 寝転がって、絨毯の上をあちらにごろごろ、こちらにごろごろ。
 どうしても、腕が障害物になる。その腕をどうやって乗り越えるか。
 勢いではなく、最小限の筋肉の努力で超えるにはどうするか?
 ちょっとした頚椎の角度、肩甲骨の位置で、全然違った動きになる。
 差異を見出し、そしてまた差異を捨てていく。
 そうして、脳地図が書きかえられている。