私の中での仏教とキリスト教の接点
私は、青年期に原始仏教に出会って以来、原始仏教徒と自称してきました。出家したわけではありませんが、人生の指針、世界の捉え方のよりどころを、原始仏教においてきました。曰く、諸行無常、諸法無我。 縁起、縁生、相依性。色受想行識・五蘊皆空。不生不滅。
しかし、社会生活、家庭生活において、「理」だけでは生き切れず、行き詰ってしまいました。そんな時に安らぎをもたらしてくれたのは、聖書の中のゲッセマネの丘のイエス・キリストの姿、三本の十字架上の姿でした。
それまで、キリスト教にはあまり興味がなかったのですが、時代背景や歴史を知りたいと思うようになりました。
そこで出会ったのが、小田垣雅也氏著の「キリスト教の歴史」「現代のキリスト教」講談社学術文庫です。
小田垣氏の本を読むなかで、キリスト教への見方、言葉の意味の捉え方が違ってきました。
例えば、「唯一神」という言葉の意味です。
言葉は、恣意的な内容を託された記号です。ものごとそのものを表すものではなく、ものごとのクラスにつけられたラベルです。この記号なくして、私達の思考や認識はありえませんが、言葉が全てを言い表せるものでもありません。
私は、「唯一」という言葉に対して、沢山あるうちのひとつを選び言い表す言葉だと思っていました。
しかし、この世界を沢山のものごとを分けるのは、人間の仕業であり、分けることのできない全体、人間の認識ではとらえきれない全体という意味での「唯一」という意味でとらえていませんでした。
ということで、私にとっては
十戒の第一戒 の意味は、「自分(人間の捉え切れない全体)以外のなにものも神としてはならない」という意味になります。ゆえに、第二戒 自分の像を刻んではならないことになります。 そして、第三戒 自分の名前をみだりに唱えるなということにもなります。 名前を与えることは、分化することですから。
以前、私は仏教とキリスト教では、接点はないだろうと思っていましたが、今は接点を感じています。
出エジプト記3:14で、モーセに顕現された神は
「わたしはある。わたしはあるという者だ。」
といいます。
今なら、この部分を読むと、私は原始仏教の相応部にある言葉を思い浮かべます。
「因是有是 此生則生」 これあるによりてこれあり
三本の十字架の上で、イエス・キリストの復活を見なくとも、イエスの傍にいて、イエスを信じるとそこはパラダイスです。
阿弥陀仏(法蔵菩薩)の誓願を信じ、自らのはからいをはずしたとき、そこが極楽です。
そしてそれは、行動分析学でいうところの「(嫌子による)ルール制御から(好子による)随伴性制御」への移行でしょう。