熊野の寅さんファンで作っている「男はつらいよ」合作脚本 後姿の寅次郎 熊野夢日記

シーン 熊野古道 女学生を引率する先生の話
 
先生 「私たちの大学の学生の多くが洗礼を受けた信徒です。家に帰れば、きっとご両親やご家族も信徒であり、高校ももしかしてキリスト教系の高校を卒業しているかもしれません。まあ、生まれてきた時から、キリスト教家庭であり、周りも信徒さんが多かったと思います。それで質問ですが、今の日本の人口で、洗礼を受けた信徒さんの数は、何%くらいだと思いますか?

 

女学生「10%くらいかしら。小説家とかタレントさんにもたくさんいるよね。麻生さんもそうかな。」

先生「約1%と言われています。1%ではありますが、明治時代以後、西洋文明を吸収しようとしてきた日本の文化に、キリスト教は深く影響を与えています。どうですか、君たちの世代は年号を言う時、西暦の方が多いのではないかな。」

女学生「そうなの、文献を調べていて、明治何年、大正何年、昭和何年、と出てきても、西暦に置き換えないとイメージがわかなかったりするわ。」

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先生「聖書を1頁も読んでなくとも、日本人は、聖書に出てくる言葉を知っているのではないでしょうか。」

女学生「旧約聖書でいえば、アダムとイブ。禁断の果実。ノアの箱舟バベルの塔モーセ十戒シバの女王。右のほほを打たれたら、左のほほも出せ。最後の晩餐。復活。隣人愛。

 

先生「日本人の日常生活のコトバにもよく出てくるが、知識としてそれら聖書の中のコトバを知っていることと、私のこと、私の課題がそこに書かれていると思って聖書の言葉を読むことは、同じではないのはわかるね。
 

 ずいぶん誤解もある。それは、洗礼を受けた信徒さんも同じだよ。例えば、新約聖書は4世紀までなかったことを知っている人は少ない。十戒の戒、戒めという言葉から、十戒は神からの戒め、命令だと思っている人もいる。隣人愛というと、すぐそばの人を愛することだと思っていたりする。律法学者を、頭の固い人の代表みたいに捉えていたりする。そして、律法とは人を縛る悪しきものと捉える。一神教唯一神といったとき、一、二、三の一と捉えていたりする。つまり、たくさんあるうちの一つを選ぶことだと思っていたりする。神を、対象として、人間が捉えることができると思っていたりする。」

 

女学生・綾「先生、新約聖書は、イエス・キリストが十字架に架けられた後、すぐにできたんじゃないんですか? その頃の信者さんは、何を読んでいたんですか? 」          
女学生・はるか「十戒は、するなかれという命令ではないのですか?
        太陽が一つであるように、神も一つと思うのは間違いなんですか?」

 

先生「イエス・キリストは、ユダヤ人であり、木を伐り、石を割った大工であり、ユダヤ教徒だよ。周りにいた人々も、モーセ五書を読んでいただろう。トーラー、律法をね。はるかさん、確か君は、ご両親も信徒さんだったね。お兄さんは、京大大学院文学研究科で、思想文化学を学んでいるだろう。有賀鉄太郎先生が提唱したハヤトロギアや万有内在神論をテーマにした授業のとき、君は法事で休んでいたんだったっけ。十戒ヘブライ語から忠実に翻訳すると、十のコトバという意味です。なになにするな、ではなく、救われたあなたは、当然しないだろう、と訳する方がよりヘブライ語に近いです。今言ったことは、今夜の宿で、ゆっくり丁寧に語ろうか。」

 


シーン 救い 年の瀬や 満たされないまま満たされる

 

清乃 「寅さん 救いってなんだろね?」
寅さん「高尚なことはよくわかんないけどね 満たされないまま満たされることかな
私ね、こんな商いしてるから お正月を自宅で過ごしたことがないんだよ。一家団欒、お正月はおせちを食べながらゆったり愛する家族と過ごす、いいねえ。
 家族だから仲がいいとは限らないけどね。でもあれがない、これがない っていいだしたら きりがない。満たされない穴が沢山あってもだよ、必ずどっか余裕のあるところ、出っ張ったところがあるさ。その余裕を、近くにいる人の穴にそそぐ、商いっていうのはね、お金儲けのことではなく、お互いの空いているところ、余っているところを
縄をなうようにすり合わせることを言うんだね。


 人間なんて穴だらけさ。笊みたいなもので、注いでも注いでも、抜けていく。そんな穴だらけでも、近くにいる人の役に立つことを考える、これが救いかな。
 それとね、穴があって、次々抜けていくのに、次々注がれる、というのも救いだろうね。となると、穴があってもいいんだな。むしろ、ひとのからだ、というのは大きな穴そのものなんじゃないか?


シーン 自力と他力 自由 智恵子の経営するレストラン 本棚があり 安朗は 
中上健次の「水の女」、マーク・トウェインの「人間とは何か」を取り出し、パラパラめくっている。


寅さん「安朗くんていったかね、青年よ。耕さぬ遊民であることに罪を感じている…
おじさんもまた、耕さぬ遊民の先輩だ。その先輩から、君の考えていること感じていることへの感想を述べさせてもらっていいかな?」
安朗 「どうぞ、お願いします。」
寅さん「君は一体何を求めているんだい?」
安朗 「自由に生きたいんです。親から、親せきから、会社から、常識から。自分の人生を自分の意思で選んでいきたいんです。」
寅さん「君はとっても真面目だ。 真面目は喜ばしいことだ。だけど、真面目過ぎると、息が詰まるものだよ。
例えば、君は今、こうして、色々感じ考えている。それは、何語で考えている。」
安朗 「英語、ドイツ語、ヘブライ語を話せるけど、普段は、日本語ですね。」
寅さん「その日本語を君は自由意思で選んだかい?」
安朗 「いえ、気が付いた時には、しゃべっていました。それにほかの選択肢はなかったです。」
寅さん「世界中の赤ん坊が、そうなんだよ。何を言いたいかというとだね、自分の意思で選んでいるつもりのことでも、つまりはそうでもないということさ。

 

 他にはさ、おしっこがそうだね。催してきて、トイレへ行く。自分の意思で、行っているようだけど、そもそもおしっこに行きたくなるのは、自分の自由意思ではない。適当な場所がなくて、我慢するのは自由意志かもしれないが、適当な場所を見つけて放尿する。その時、膀胱を収縮させるのも自分の意思ではない。
 言ってみりゃ、生きていくのに必要な水を飲み、それがやがておしっことなり、放尿するのは他力、我慢するのが自力、つまり自由意思だな。年取ってくるとな、あーと背伸びしただけで、もれちゃうことだってあるんだぞ。自力、自由意思が大事と、あんまり頑張りすぎなくてもいいんだよ。あ、催してきた。ありがたや、トイレへ行くたびに他力を感じることができる。
 他力の大地に、自力の花が咲くと来ら~。」(寅さんトイレへ向かう)