熊野の寅さんファンによる合作脚本 後ろ姿の寅次郎 熊野夢日記 2019.1~ 記号論風
シーン 記号性論 本宮の宿にて 先生と学生たち (綾 順子 なち
先生 「<記号>ということばを聞いたとき、君たちはどのようなことを思い浮かべますか?」
綾 「地図記号 ロゴマーク イラスト 図形 文字 シンボル 印 暗号 信号 符号 合言葉 え~と・・・」
順子 「数学 +とか- = ×・・・」
先生 「君たちは、大学生なんだから、せめてソシュールの言語学・記号学ぐらいは挙げてほしいですね。」
なち 「授業でも学びましたけど、所記と能記 ラング/パロール シニフィアン/シニフィエとか頭の中が、混乱してきます。」
先生 「今日は、授業でなくゼミの合宿だからいいますが、なちさん、恋愛をしましょうね。まあ、恋愛だけでなく、ひとと深く付き合えば、そこに必ず齟齬が生まれます。
その齟齬を体験し、なんとか乗り越えようとするときに、ソシュールの記号学や記号論が生きてきます。
でも、今日取り上げるのは、ソシュールではなく、チャールズ・サンダース・パースです。」
順子 「あんまり聞いたことのない名前ですね。 いつ頃の人なんですか?」
先生 「1839年にアメリカで生まれた大天才です。 記号解釈とかアブダクションとかいう言葉を聞いたことはありますか。」
なち 「先生、お手柔らかに。」
先生 「二泊三日の日程をすべてパースの記号論につぎ込んでも、ほんの一部しか伝えられないと思います。ですので、君たちのこれから人生の探求に役立つことを願って、記号性論へのきっかけを創りたいと思っています。
なちさん、空を見上げてください。」
なち 「雲が浮かんでますね。高いところで筋状になっているのが巻雲と巻積雲、いわし雲。それより低いところでぽっかり浮かんでいるのが積雲の片平雲。綿雲ですね。 明日もいい天気。弟が、雲を見るのが好きで私も名前がわかるようになりました。」
先生 「そうです。あの雲も、その解説も記号です。ほんとは記号としての働き、記号性があるといった方がいいかな。」
綾 「先生、コトバとか図形、動作や映像と同じようにどうして雲も記号なんですか? コッペパンや羊にみえたりするから?」
なち 「綾さん、雲って低気圧が通過するとき現れる雲の種類と順番がほぼ決まっているのよ。だから、経験を積めば、雲をみて、あと何日で雨になるか予想がついたりするのよ。」
先生 「自然界のいわし雲に記号性を見、いずれ天気は下り坂になるけど、明日はまだ晴れ、と記号解釈しているんだね。さらにそれらを記号として、弁当屋さんなら、明日の売れ行きの良し悪しを解釈したり、傘はいらないと解釈します。
パースはね、ことばや図形だけでなく、見えたり、知ったり、考えたりするものすべてを記号と捉えたんだ。
そして、私たちは、世界を直接理解することはできない。記号性を通して解釈している、記号性と記号性を解釈した記号性解釈が、新たな記号性となり、それがまた解釈や行動を生むと考えた。」
なち 「先生、やっぱりむずかしいです。」
先生 「なちさん、やっぱり恋愛しましょう。 アブダクションの話をしようと思ったのだけど、さらに混乱するかな。」
なち 「先生、私の仮説、アブダクション、私、先生に恋しています。」
先生 「なちさん、今の発言にも記号性があり、君自身もまるごと記号性がありますね。 どう解釈しましょうかね。」
なち 「ふらここや少し汗出る戀衣 柔肌の熱き血潮に触れもせで寂しからずや道を説く君」
綾 「先生、なっちゃん。親子で何戯れているの?」
なち 「だって私たち、親子でも、血のつながってない親子ですもの。いいでしょ。」 (鞦韆にこぼれて見ゆる胸乳かな)
シーン 記号性学2 宿にて 先生と女学生たち
先生 「さて、夜の講義を始めます。 ここ熊野は、甦りの地と言われています。甦るということは、一旦死ぬということです。生老病死ということばがあるように、「死」は私たちにとって大きなテーマであり、苦しみや執着の原因でもあります。
今夜の講座は、瞑想の手法を使います。 これまでも止観瞑想の方法はお伝えしてきましたね。
皆さんにこれから質問します。 それをそのまま、自分に問うてみてください。
今、心臓が止まっている人、手を挙げてください。 いませんね。おそらく65前後の心拍数でしょう。心臓が止まっていては、あなた方は活動できません。 では、そのあなたの心臓を誰が動かしているのでしょう?そして誰がやがて止めるのでしょう?
今、私は、日本語を使って話をしています。この発言された文章も、文脈も記号です。私達は、この記号なしで、考え事をできるでしょうか?
あなたにとって、あなたの神は、どのような存在ですか?
どのような存在であるかを、あなたはどのようにして知ったのですか?
直の体験?伝聞?推論?
あなたにとって、あなたの神は、あなたが認識できる対象なのですか?
つまり、あなたが認識できる他の事物と同等の存在なのですか?
あなたにとって、あなたの死は、どのようなことなのですか?
脳や心臓の停止? 思考の停止? 元素への分解? 肉体からの分離?
例えば、目の前のコップを持ち上げ、水を飲むとき、筋肉の調整に、どれくらい脳が働いたか自覚がありますか?
肉体から分離するとして、ではなぜ、それまで肉体の中に宿っていたのですか?
なぜわざわざ肉体と一致していたのでしょうか? 最初から、肉体から離れていたほうが、自由でしょうに。
生きているあなたが、どのようにして、あなたの死を知ることができるのですか?
直の体験ですか? 伝聞ですか? 推論ですか?
あなたは、無ということばを知っていますね。 あなたにとって、無とは何ですか?
無について、何か語ることができるのでしょうか?
あなたは、全体ということばを知っていて、使ったりしますね。
今あなたの目の前に、愛読している本があります。
あなたは、その本の全体について語れますか、知ってますか、みえますか。
表紙を見ているときには、裏表紙や背は見えません。あるページを読んでいるとき、他のページは見えません。
あなたの前に、あなたが愛用しているティーカップがあります。このカップの全体について、語ってみてください。色、形、触感、掌に載せたときの重さ、どのような経過で、目の前にありますか?それらを全体と言えますか?
あなたは、あなたの神について、あなたの死について、あなたの無について、あなたの全体について、実感に基づいて、直の体験に基づいて、何か語れますか?