「ファブリーズはいらない―危ない除菌・殺虫・くん煙剤 」 渡辺 雄二 (著) 緑風出版という本があります。
ファブリーズは、臭いの原因となっている菌を除菌することによって、臭いを消すことになっています。除菌は第四級アンモニウム塩などの化学物質によって行われます。「スプレーの中の化学物質は、肺から吸収され肝臓で分解されずに体内をめぐり、白血球がその除菌剤と戦うために活性酸素が生じ、老化を促進してしまう」とも言われています。
「臭いが気になる人」にとっては、スプレーしてその直後に臭いが消えるのならば、それはそれで有り難いことだと思います(直接効果的行動随伴性?)。副作用が後になって現れるとしてもです。
臭いをどれくらい気にしているのか、起こると考えられる副作用は実際はどれくらいの確立で生じ、どの程度のものか、それをどれくらい気にするかで、消臭剤に対する評価はそれぞれ違ってくることでしょう。
ただ、同じ「気にする」といっても、単に臭いを気にするだけなら、より精神的な気になり方ですが、起こると考えられる副作用の方は、実際に薬剤をスプレーするのですから、より物質的といえるでしょう。
また、臭いが気になる場合の対処法は、洗濯とか、掃除とか、あるいは心理療法とか、消臭剤以外の対策があるでしょうし、一方スプレーした化学物質の副作用は、その薬剤を除去するしかないから、最初から使わないか、近づかないことになるでしょう。
消臭剤のCMを見ていて私が感じるのは、そこまで臭いを気にさせるようなCMは放送しなくてもいいのでは、ということです。 今まで気にならなかったことが、CMを見ることで気になりだしたりします。(CMとは言語行動によるルール支配行動?)
とはいえ、気になるからにはそれなりの適切な対策、別の選択肢の情報が必要と思います。
私が危惧しているのは、先ほどの「言語行動によるルール支配行動」です。
世界をまず「清と濁」「光と影」「快と不快」の二元対立要素に分け、「すべてが清であれ、すべてが光であれ、快であれ、でないと濁・影・不快が増大する」というルールをつくり、清であろう、光であろう、快であろうとすれば、その一方見えないところ(心理)で、濁も影も不快も肥大していくように思います。
多くの人にとって、通常に考えれば「死ぬこと」というのは、「不快」なことだとおもいます。
言語行動(学習)以前に、生命活動が停止することは、生得的な不快なことように思うのですが、じっくり考えるとそうとは言い切れないようにも思います。というのは、日常の中で、からだの中で、生と死は隣り合わせですから。日々、一瞬一瞬、このからだの中で、自然界の中で、生と同時に死は起こっていますから。(アポトーシス)
「いつどこでどのようにやってくるのか分からない死」を恐れるのは、実は言語行動によるルール支配行動ではないか、と思うようになりました。
「死ぬこと」を適度に気にすることは、ある程度必要なことなんだろうと思います。
どの程度が適度なのか、それは人それぞれでしょうが。
また、時期もあると思います。いよいよ臨終が近くなれば、「死ぬこと」を受容するためのルール支配行動が必要となってくることでしょう。
これもまた、臨終の近さへの判断が人によって違うということがいえます。
「死ぬこと」を気にすること、恐れることが、生の充実、世界の充実につながるのなら、十分「死ぬこと」を気にすればいい、恐れればいいのだろうし、「忘れること」が、生の充実、世界の充実につながるのなら、忘れることを選択すればいいのだろうし、「向き合う事」「受容する」ことが生の充実、世界の充実につながるのなら、向き合うあるいは受容すればいいのだと思います。
選択肢は多いほうが、かつ階層的である方が良いように思います。
ただ、要素論だと苦しいな、と思います。