近現代人の疎外

k1s2013-04-23

私のような一庶民でも、朝は自宅で朝食を食べ、その夕方には、中国・上海のホテルで夕食を食べるということが可能な時代になりました。例えば、江戸時代の私の御先祖さんと較べてみましょう。自分の暮らしている土地を離れると言ったら、せいぜいお伊勢さんへ徒歩で何日もかけて行ったのではないでしょうか。
一見、現代人の方が、便利で豊かな暮らしをしているかのように思えてしまいます。タンスの中には、冬物夏物の衣料が何着も入っています。江戸時代なら、考えられないことです。

生命体は、まず何があっても生きようとするエネルギーで満ちています。そして、人間は動物の一種であり、生きんがために、自分自身に働きかけ、他者に働きかけ、環境に働きかけ、より生きやすくしようとします。
「働きかける」を、支配しようとする、操作すると言い換えてもいいでしょう。人間は、その過程で、色々な「道具」を作り出しました。私を上海に運んでくれる飛行機も「道具」です。
日々の暮らしに必要な物品を作り出す工場を動かす電気を作り出す発電所も「道具」です。今このパソコンを動かしている電気を生みだしているのも発電所という道具です。
「お金」だって、元々は物流のための便利な道具でした。

しかし、近現代人は(庶民も権力者も)、その道具に逆に操作されているように思えます(疎外)。

 朝朝食を食べながらニュースを聞いていると、これから都会に「経済特区」をつくるそうです。「特区」と聞いて私が思い浮かべるのは、ジャマイカ経済特区です。その「特区」の中は、治外法権で、ジャマイカの法律が適用されません。法の決まりを受けず、安く人を雇用できます。日本でも行く行くの更なる「規制緩和」とはそういうことなのでしょう。
 
 田舎では仕事がないということで、多くの人は、都会に出て行かざるを得ません。そういった人々は、安く雇用できます。かつての、産業革命期の労働者の姿、都会の路上生活者の姿が浮かんできます。
 
今は、もっと巧妙になっています。現代は、直接鎖で足かせする必要はありません。ローン・利子で縛りつければいいのですから。
 
 人は一人では生きられません。現代人の分業は増々細かくなっています。その細かく分業された細い糸で私達の暮らしはつながっているので、社会全体の流れから抜け出ることや流れを変えることは容易ではありません。
 
 さて、どう生きましょうか。一つは、決してあきらめることなく、時代の流れに流されつつも(緯糸)、その中の個々人の永遠性を見い出し(経糸)、天衣を織っていくことだと思っています。
 
時代の大波に飲み込まれまいとすることで、精一杯なところもありますが、だからこそ「永遠性」です。
一つの提案としては、ともかく、ゆっくりゆっくり息を吐いて、息をみること。
「天衣無縫」