鎌仲ひとみさんの「思考する少年」東京新聞コラム記事を読んで

k1s2013-04-24

グレゴリー・ベイトソンは、「精神と自然」(生きた世界の認識論)思索社の中でこう述べています。
 
<学校教育は、真に重要な問題は注意深く避けて通っている>3頁
 
<私はこれまで数々の学校、大学病院等で、大学一年生から若い精神分析医に至るさまざまなアメリカ人学生に、行動生物学と文化人類学に関わるさまざまな内容の講義を行ってきたが、その中で、学生たちの思考の中に何とも奇妙な穴がぽっかり開いているのを見せられてきた。それは彼らが思考のためのある種の道具を欠いているためにできた穴である。この傾向は学部と大学院、文科系と理科系、男子と女子の区別なく一様に現れる。彼らに欠けているもの―それは前提の認識なのだ。科学の前提のみならず、日常生活の前提についても彼らはまったく盲目なのである。>33頁
 
<自分のありかたがまちがっていることもあり得るのだという観念を一切欠いた人間は、ノーハウしか学ぶことができない>34頁
 
 
「思考する」とは、目の前の課題を前にして、無意識的、反射的に決まりきった行動を選ぶのではなく、今までとは違った別の行動の可能性を考えたり、結果を予測したり、それらの行動を選ぶに至った前提そのものの適切さを問うこと、別の前提の可能性を考えることだとおもいます。
 
自分の学生時代を振り返ってみると、残念ながら、私が受けた教育の殆どは、先ず決まりきった正解パターン(行動)を丸暗記すること、あるいは極まれに正解パターンとは違う別の行動の可能性も考えることでした。「前提そのものを検討せよ」という先生にはめったに会いませんでした。
 
ベイトソンのいうように、「自分の在り方(選んでいる前提)が間違っていることもあり得るのだ」という観念を欠いた人間は、(与えられた)ノーハウしか学べないのだと思います。