弁別と般化の空想実験

「実験室において、1分間100拍のメトロノームの音を聞かせて、犬にえさを与えると、やがて条件反射が成り立ち、1分間100拍のメトロノームの音を聞くだけで、犬は唾液を分泌するようになる」と習いました。
 
1分間100拍のメトロノーム音に対する条件反射の成立だけを考えるのならば、「そうか、メトロノームという中性刺激とえさという無条件刺激を対提示すると、中性刺激も無条件刺激と同じ働きをするようになるんだな。」と話に巻き込まれていきます。
 
更に説明は続きます。
 
1分間に80拍のメトロノームの音を聞かせると、100拍ほどではないけれどやはり唾液を分泌する。これを、刺激の般化といい、1分間20拍だと唾液は殆ど分泌されない。これを弁別という。1分間の拍数によって、分泌の量が変化することを、般化勾配という。
 
そこで、1分間に100拍のメトロノームの時にはえさを与え、80拍の時にはえさを与えないことを続けると、80拍では唾液が出なくなる、これを弁別という。
 
次には、実験神経症です。
 
完全な円形を提示し、えさを与えて、条件反射づけた犬に対して、楕円を提示した時にはえさを与えないという分化条件付けを繰り返します。
 
< 楕円をどんどん円に近づけていき、楕円のタテ横比率が9:8にまで近づくと、犬はその違いが分からなくなり、弁別学習が成立しなくなりました。
そして、犬にこの「9:8の楕円」の実験を続けていると、それまでおとなしかった犬が暴れ出すようになり、実験室に入ることも拒否し、それまで難なくできていた「2:1の楕円」の弁別も崩壊し、これらの症状は「9:8」の実験をやめた後も長く続き、なかなか回復しませんでした。>
 
と説明されています。
 
このような実験を実際行ったことのない私は、色々空想してしまいます。
 
どのような犬においても、このような実験結果になるのだろうかと。
 
以前に、パブロフは、犬にも個体差があることを前提に実験をしていたとの記事を読んだ記憶があります。
 
個体差だけでなく、実験においては、被験者の実験条件が同じになるように統制します。
 
例えば、
男性と女性の計算能力の差を測る実験をするとしましょう。
男性は小学一年生、女性は小学6年生から選んで実験すれば、女性の方が上になるでしょう。
 
実験室での実験結果をもとに、日常生活での出来事について考えるときいつも、この条件の差とか個体差を想ってしまいます。
  
実験室での実験がすべてダメと言っているのではなく、実験室での実験が参考になる場合と、参考にならない場合があるだろうなあ、と思うのです。
 
それといつも思うのは、弁別と般化を横並びに考えることが多いけど、弁別と般化は、横並びと同時に階層的だよね、ということです。
 
例えば、初めてはいるスーパーの入口で、つがるとジョナゴールドをそれぞれ2個買ってきてと言われたとします。店内に入ると、どうするでしょう。いきなり目の前のものがつがるであるかないかと弁別するのではなく、まず食品売り場を探すことでしょう。食品売り場とそうでない売り場を弁別するのですが、その時スーパーの中の色々な売り場のうち、あるグループを、食品売り場に般化しているともいえます。食品売り場らしいところへ行くと、そこでもいきなり目の前のものがつがるであるかどうか弁別するのではなく、さらに乾物を売っているコーナーなのか、お菓子を売っているコーナーなのか、般化と弁別をするでしょう。目の前にカップラーメンがあれば、同じ棚の奥に林檎が在るとは思わないでしょう。この棚の向こうになにかみえるけれど、こうしたインスタント食品の類が並んでいるだろうと般化すると思います。
 そして、果物のコーナーで、リンゴを売っているコーナーを見つけることでしょう。
 
つがるとジョナゴールド、という買い物のレベルが示されているので、その目的のものが買えると思います。
 
これが、何か果物を買ってきて、とか、リンゴを買ってきて、のレベルの依頼だと、ある人々は、迷ってしまいます。果物のうち何を買えばいいのか、リンゴのうち何を買えばいいのか、と。
 
なぜ、長々と今日このような文章を書いているかというと、弁別と般化というのは階層になっていて、その階層をつきつめていくと、きりがないのではないか、と思うのです。
 
話が通じるためには、使用している言葉のレベルを一致させないと思うのです。
 
八百屋さんには野菜が売っています。
 
だからといって、八百屋さんの店頭で、「野菜をください」とお願いしても、
野菜は売ってもらえません。
 
「明日の夕飯はカレーにするから、野菜を買ってきてね。」
 
といわれれば、「じゃが芋」や「人参」を買ってくることでしょう。
 
絵を全然かけなかった私ですが、
ある描画法と瞑想を知り、絵を楽しむようになりました。
最初は、弁別を知りました。
対象を弁別しないことには、写生できません。
写生を練習していると、ボタニカルアートに惹かれました。
ボタニカルアートに凝り始めると、はがき一枚の絵でも、とっても時間がかかります。
 
そこで、次には省略を、つまりは般化することを学びました。
 
この般化は、弁別ということが出来てはじめてできる般化です。
 
多くの人は、弁別が出来なくて悩んだりしますが、
弁別の深度が深すぎて、困っている人のことを最近思うようになりました。
 
森を見て、木を見ない、とか、木を見て森を見ない、という表現がありますが、
その人々は、森でもなく木でもなく、最初から、樹皮のでこぼこのその山の峰にできている波に見とれているのです。