弁別と般化とフラクタル

これまでに、「弁別と般化」という題で何度か書きました。
 
心理学用語の解説としてではなく、
それが生きるということ、苦しみの生滅とどう関わっているかということを考えながら書いてきました。
 
言い続けてきたことは、弁別と般化は、
横並びの対立的な関係にあるだけでなく
階層関係になっているということ
 
「テーブルの上にりんごがある。」というとき

赤くて、丸くて、甘酸っぱい香りがして、ということから
りんごを般化していると同時に、
 
黄色くて、長細い、バナナや
紫色の小さな丸いものが集まっている、ぶどうから
りんごを弁別しています。
 
そして
弁別と般化は、卵と鶏のような関係でもあると思います。
連続しているということではなく
どちらが先かは言えない関係ということで。
 
部分だけ取り出せば、どちらが先かは言えそうに思います。
 
川端茅舎の俳句「青蛙ぱっちり金の瞼かな」だと
 
茅舎は、青蛙から金の瞼を弁別しています。
この俳句を、文章で読むとき、私達も同じようにズームインします。
 
しかし、そもそも、茅舎は、どうやって青蛙を弁別したのでしょう?
 
 
「人間は必ず老いていって、この世を去る」という表現は
人生をある面で般化しています。
「どのようの老いていくかは、人それぞれ。」
「どのように旅立つかは、人それぞれ。」というのは、そこからの弁別です。
 
「汝が今かくあるは、汝がこれまで思い行動してきた結果である。」という表現も、
ある面、あるレベルでの般化です。
 
栄養のバランスを考え、カロリー計算をしながら料理し、食べるのは、般化的な食事です。
 
一箸一箸、色を感じ、丁寧に舌の感触、歯の感触、香り、味を感じながら、あるいは文脈を感じながらいただくのは、弁別的な食事です。
 
般化的、弁別的などという表現をしましたが、
実は、何事かを般化するには、弁別が前提であり、
そして、弁別をするには、般化が前提となっており
般化と弁別過程は、フラクタルな関係、階層関係になっていると思います。
 
「死」を恐れて、無限に「増殖」を求めることも
「無じゃよ」と禅的に言い切ることも
全然階層的じゃないように思います。
 
金子兜太・澤木欣一監修 「子ども俳句歳時記」蝸牛社発行 1990から
 
「あかとんぼいまとばないとさむくなる」 よしかわごう 福島県 小学一年生