情報を拾いなおし、そして捨てる

 時代が移り変わって、「連合理論」「連合学習」という言葉は、教科書の中や動物の訓練の場で主に使われる言葉になりつつあるようです。
 
 自動車の運転を語るにあたって、自動車、運転者、道路、法規などシステム全体の視野が大切であることは言うまでもないことです。しかし、雨の日にワイパー一つが動かなくなれば運転が難しくなるように、まっとうな部品が正常に働いてこそ、車は動きます。
 
「連合理論」は、ネジやボルトのようなまっとうな部品にあたるように思います。

 「記憶にございません」という言葉が流行った時代がありますが、「記憶」とはなんですか、と問われると、どう答えるでしょう。
  
 記憶という言葉を日常的に使っていても、「経験の効果の保持過程を記憶という。」といえる人は少ないでしょう。
 
 連合学習という言葉は、教科書を読んでいるとよく出てきますが、同時に出てくる言葉として、「余剰学習」「結果学習」があります。
 
 「余剰学習」とは、不必要な情報を積極的に捨てる学習のことを言うそうです。
 
例えば「慣れ」がそうで、慣れとは、「神経系が、特定の刺激に積極的に<反応しない>ことを学習した結果」です。働きが衰え、反応が鈍くなることではありません。


 絵を描くにあたって、実物を目にして、細かい複雑な線を見えているように描きたいと思っていても、そのように描けず簡単な線になってしまうことと、特徴だけをとらえて、簡略化した線で描くことは、全然違います。
  
 それで、「下手が悪い」とは思いませんが「下手がいい」とも私は思えないのです。
  
 絵手紙教室の先生は、余剰学習の結果、簡略化した線を描けるのだと思います。
 初心者は、余剰学習ができていないと思います。
  
 「自分で意識して般化と弁別をし、情報を拾い、そして、自分で意識して情報を捨てる」
 
 ものごとの上達には、そういう過程があると思っています。
 
 「下手でいいけど、上手ならもっといいです。」