初心俳句会 メタ学習

日本人の子供が、日本人の両親のもとで、日本で育って、やがて日本語を話すようになるのは、本能行動だろうか、つまり無条件反射だろうか、あるいは古典的条件付けだろうか、あるいはオペラント条件付けだろうか、代理強化・観察学習だろうか?
 
生物学的・生理学的に感覚系・運動系機能が正常に働いていることは必須でしょう。
たまたま「マー」と発語して、お母さんの反応があれば、それから「ママ」という言葉を発したり、おっぱいや食べ物が得られたら「マンマ」という言葉になったりして、オペラント条件付けが成立したと思います。最初は「カイシャ」という言葉の意味内容を知らずに真似して使っていてそのうち意味も分かるという観察学習もして、日本語を話せるようになったことでしょう。
 
家族全員が普通に日本語を話せるような家庭では、母国語を話せるのは、自然の成り行きと受け止めがちですが、言葉を発するというのは、とても大変な作業です。
 
母国語以外の言葉を学ぼうとするとその大変さの一部がわかります。
 
心理学を学ぶものだけでなく、集団生活を営む人々は、一旦身についた学習から、更に新たに学びなおすということのむずかしさを、常に自覚していることが大切のように思います。
 
といいますのは、社会運動に関わっている人々が、自分たちの運動の主旨・内容・意見がなかなか同意や理解されないときに、「人々は洗脳されている」とか「思い込みが激しい」という発言をしているのを聞くことが時々あるからです。
 
確かに、私達は私達の住む環境文化の中で、条件づけられ、洗脳されているのでしょう。けれど、その洗脳された脳が新たに、そう簡単に洗脳されるわけではないでしょう。
 
更に、「啓蒙的な人々」は、主義主張、考えを言葉で提示し、それに人々が触れると当然自然に「啓蒙される」あるいは「啓蒙されるべき」だと捉えているような印象を受けます。
 
提示し、何度も語りかけたにもかかわらず、相手が変わらなければ
「洗脳されている」「思い込みが激しい」「堅物」と嘆いたりしているのを見かけます。
 
我々人間が、あるいはほかの動物でも、今までとっていた行動とは別の行動を選びそれが定着するようになるには、どのような状況があり、どのような状況の中で、どのような過程を経て、変化するのかを、じっくり、つぶさに見ることが大切です。
 
これは、つまり学習過程のメタ学習です。
 
因みに、カウンセリングやセラピーによっても、行動の変容、新たな学習が起こったりするのですが、カウンセリングやセラピーをすれば必ず変容が起こる訳ではありません。
 
ある特定の理論や技法だけが他に秀でている訳でもありません。
 
働きかける側と働きかけられる側の信頼関係が第一の条件であるという報告があります。
 
子供、つれあい、同僚、上司や部下、同朋の行動の変容を望むのであれば、先ずは信頼関係を結ぶことが大切、といわれています。
 
しかし、多くの場合、短期的、即効的な変容を求めて「権力に基づく罰」で変えようとすることがみられます。それは観察学習?オペラント学習?
 
私達がいかに環境文化から洗脳されているか、自覚する一つの方法は、恋人同士でも、親子でも家族でも、例えば「マスターベーション」について話し合うことです。
 
「短夜の独奏(ソロ)には独奏のエクスタシー」
 
 
(最後の?スクーリングで、東京に来ています。新幹線の中で思ったことを綴りました。)