「解決」という言葉から

「解決」という言葉があります。
そう難しい意味内容の言葉ではありませんから、大人であれば日常でもよく使う言葉でしょう。
   
インターネット上のデジタル大辞泉には、
<  1.問題のある事柄や、ごたごたした事件などを、うまく処理すること。また、かたづくこと。「紛争を―する」2.疑問のあるところを解きほぐして、納得のいくようにすること。また、納得のいくようになること。「疑問が―する」>
とあります。
    
一般的な場での(国語的)(ロゴス的)使用なら、それでいいのでしょうが、私には私なりの(瞑想的)(ダーバール的)辞書があり、私自身が「内言」としてこの解決という言葉を使う時、つまり色々な課題に向き合いどう生きたらいいのかを考える時には、「モノゴトの関係や流れを解き、明らかにして、態度を決する」という意味で使います。
     
といいますのは、ふつう解決といわれるのは、自分にとって都合の良い方向に結果が出ること、状況が変わることをいうのだと思います。処世術的な課題なら、そういう課題もあろうかと思います。しかし、実存的な課題となると、一時的な都合の良い変化はあっても、私達のからだというのは、ある年齢を過ぎると、必ず老いていきますし、やがて死ぬことになります。世の中の状況にしても、環境にしても、いい方に変わるとは限りません。
 また、何を以て都合がいいと言えるのか、お互い良い変化を望みつつ、考え方の違いでそれが争いのもとになることもあります。
   
 仮にある予言や歴史的法則仮定が成就して、この世から戦争が亡くなり、格差もなくなり、環境問題も解決されたとしましょう。その解決成就した日に、大地震が起こるかもしれません。
      
自分たちにとって都合の良い方向に、自分自身も周りの環境も変わることを願い、信じるのは、私達の基本的な願いかもしれません。でも、その願いはかなえられる保証がありません。
    
普通、自分たちの都合の良い方向へ変化することを解決といいますが、そうではない「解決」があるようにおもいます。私にとっては、明日のことは永遠の謎として、明日がどんな日であろうとも、「信・愛」の方を選ぶ決心をするという解決です。