今を取り戻す2 社会生活と自然生活

 「人間」という漢字が示すように、私たち人間は、人の間に生まれ、育ち、旅立っていきます。人間が人間であるためには、社会生活は欠かせません。 その社会生活も、大自然あっての社会生活です。


 人間の社会生活は、全生命、全存在によって営まれる自然生活という大きな海に浮かぶ船のようなものです。 しかし、乗っている船が大きくなるにつれ、船が大海に浮かんでいることを忘れてしまい、海は単なる航路(資源)と思うようになったりします。 全自然生活の中に社会生活が浮かんでいるのに、社会生活の一部に自然生活があるかのような錯覚に陥ります。社会生活と自然生活を並列に見たり、対立的に見たりします。しかし、先ほど言ったように、全自然生活の中に社会生活が浮かんでいます。


 息をする、眠る、食べる、消化する、排せつする、歩くといった生命活動は自然生活です。どのようにして、食べ物を得て、どのようにして食べるのか、あるいは排泄するのかは社会生活です。暑さ寒さ対策で衣服を身に着けるのは自然生活的ですが、ドレスコードは社会生活でしょう。

 ことばを使い、思考するというのは、社会生活のようですが、これは自然生活よりもっと大きくて広い宇宙生活なのかもしれません。


 社会生活には社会時間があり、自然生活には自然時間があります。江戸時代のころは、日本社会の社会時間とヨーロッパの社会時間は別でした。ところが、商品経済が発達し、グローバル化した現在では、世界中同じ時計を使った時計時間という一つの社会時間に従って生きている人がほどんどです。


 自然時間のほうは、現在も、バクテリアと昆虫と植物と動物など、それぞれの内なる時間で生きています。バクテリア、ねずみ、象の一日はそれぞれ違う一日でしょう。人間は、自分の中にある自然時間を忘れがちです。仕事を終えて家庭に戻っても、テレビやパソコンをすれば、社会時間(外なる時計時間)の中に組み込まれます。

 社会時間に取り込まれっぱなしにならず、自分の内なる時間を取り戻す手立てとして、瞑想があります。
 出産そのものは、本来自然時間に従って進行しますが、間際になると社会時間が優先されたりします。

 
 産むこと、生まれることと同じく「死ぬこと」も、本来は自然時間のできごと(天命)なのですが、「死」という概念をおそれることによって、社会時間の出来事、つまり外なる時間の中の出来事になってしまったりします。
 逆に、自分の時間、自分の「今」を生きられていない人は、「死」を恐れます。


 人が人に魅かれる、触れ合う、抱き合うというのは、自然生活なのですが、内なる時間を失い、自分の今を忘れてしまうと、「結婚」は、社会時間による社会生活・習慣となります。


 自分の「今」を取り戻し、自分の内なる時間を生きる一つの手立てとして、「飲食」があります。
 急がず、嚥下を感じながら飲食(止観瞑想の止)すれば、「今」を取り戻すことができます。