「いま」をとりもどす


〇再会
 もう一度一緒に居れる「とき」に生(な)ったら、あれもこれも話そうと思っていたのに、いざこうして逢ってみると、二人はただ微笑みを交わす。

 私は、この日のために宿し続けてきたティーカップを本棚の奥から取り出した。ひとり彼女を思い、山を眺め、歌を歌いながら飲んできた紅茶の中からプリンスオブウェールズを淹れる。 彼女は、その山の端を流れる雲を眺め、円を描いて飛ぶ鳥をみている。 風が吹くたびに、木の葉たちが、さざ波のような音を立てる。

 彼女がカップに触れる所作、香りを味わい、唇を当てそっと飲むしぐさなどを見て、会えなかった日々、彼女はこのようなしぐさで生きてきたのだろうなと思い、いまここに生(あ)る彼女をみつめる。

 出会ったときも、彼女は彼女の内なる「とき」を生きていた。社会生活を営む以上、外なる時間制度に合わせたり、しばられたりもするが、「とき」は、それぞれの内に生(あ)る。 それを教えてくれたのは、彼女だ。
 私は、彼女の手をみつめた。 彼女も私も、向かい合って座りながら、静かにお互いの息遣いを感じている。 歳と共に、ゆったりとした深い息になった。 何度も何度も、ため息をついてきた中で、深くなった。 ゆったりとした目立たない息遣いが、この逢えなかった年月の言葉にならないことまでも語っているように感じた。

 長い年月、電話で話すことも、メールで話すこともしなかった二人。しかし今、こうして向き合って座っている、お互いの息遣いを感じている。いつかこの日が生(あ)ることを、ひたすら信じていた。お互いことばで約束することもなかったのに。 それどころか、これほどそばにいて充実し、楽しく落ち着ける人はいないとお互い感じつつ、でもこれ以上会うことは、いまはかなわないと自覚し、離れたのだった。

 再開の日は突然やってきた。夜、ドアをノックする音がする。ドアを開くと、そこに彼女が立っていた。
 そして、彼女は「そのときになったわ。あなたは?」といった。

〇ハーモニー
 星灯りの中、彼女が眠るそばに私はからだを滑り込ませた。彼女は何も身につけていない。長く離れて暮らす以前、掌を重ね合って話したことはあっても、それ以上の肌の接触はなかった。 お互いの肘のあたりが触れ合った。 もうそれだけで、私のからだは震えた。
 そっと抱き合い、足を絡ませた。 彼女の胸が膨らんでいく。 彼女の涙が、私の頬を伝った。 私は彼女の髪を撫ぜ、また仰向けになり、掌を重ねた。 語ろうと思い続けていたことが、遠くへ遠くへ流れていく。 掌の脈動に、聴きいる。 渇いた谷川の川床の下を流れる水の音を聴くように。

 いつの間にか、二人とも寝入ってしまった。裏山の鹿の声で目が覚めた真夜中、彼女も同じように目を覚ました。 優しく抱き合い、私はそっとそっと唇で彼女の唇に触れた。

 「鹿の鳴き声がしたね。」と彼女は言う。 「谷川の水を求めて」と私は応える。「あれからよく聖書に関する本を読むようになったよ。特に旧約をね。 エヘイエ、アシェル、エヘイエ。」 「ヘブライ語だね。」 「うん、あれから、ことばとものごとの見方の関係を考え続けて暮らしてきたんだ。 ヘブライ語で書かれていることを、日本語で表現するのは難しいと思っている。」 すると彼女は小さく口ずさんだ。 「シェマ イスラエル アドナーイ エローヘーヌー アドナーイ エハッド」 「Adonaiアドナイ Echadエハッド 唯一というときの一は、一、二、三の一ではなくて、全体として一つという意味なのにね・・・」とそこまで言ったとき、突然彼女の唇が私の口をふさいだ。 そして、暖かく、甘くとろける感覚が口の中に広がった。そしてそのまま全身に広がった。 私の脱力を感じ取り、彼女は唇を離した。