しあわせであれ 素朴実在論から

素朴実在論 実在論 因果 苦しみ 存在と認識
     
 「素朴実在論」について、インターネット上の辞典、ウィキペディアには、<「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする考え方のことである>と説明しています。
  
 短い時間に限って言えば、私達はこの素朴実在論という見方を採用して生きています。
     
 朝の食卓に、パンとオレンジジュースとサラダがあります。花瓶には、バラが活けています。
 食べている時、鳥の声がします。窓の外を見ます。庭の樹木の枝に小鳥がとまっています。その前を蝶々が飛んでいます。そして、又テーブルに目を遣った時、目の前には先ほどと同じ皿の上にパン、サラダ、同じコップにオレンジジュースが、花瓶には同じバラがあることを、疑いもしないでしょう。
「先ほど見えていたように、同じく色んなものが、そこに存在している」と、当たり前すぎて、言葉で確認することもないでしょう。
     
 胡蝶之夢という話を知っていても、今ここでパンを食べているのは実は、蝶々が見ている夢だ、と真剣に思う人はあまりいないと思います。
 昨日の朝同じテーブルでパンを食べていた自分と、今日ここでパンを食べている自分は同じ自分だと、疑いもなく思っていることでしょう。
 (ただし昨日の健康診断で、がんが発見されステージ2と言われたら、まるっきり同じ自分であるかどうか、考えたりするでしょうけど)
(バラは、1週間もたてば、ごみという名に変わるでしょうけど)
    
   
実在論ウィキペディアで調べてみると、
    
< 実在論とは、名辞・言葉に対応するものが、それ自体として実在しているという立場。対応するものが概念や観念の場合は観念実在論になり、物質や外界や客観の場合は、素朴実在論科学的実在論になる。>
     
< 実在論の起源は古代ギリシアプラトンが論じたイデア論にまで遡ることができる。イデアの理論によれば、感覚することができる世界は実在するものでなくイデアの射影であると考えられた。個々の感覚を理性によって把握することによってのみ実在するイデアを認識することができると論じている。> とあります。
     
 短い時間の経過については、私達は素朴実在論を採用しますが、長い時間の経過については、別の見方が必要になってきます。
      
 幼いころ、虹は実際にそこにあるもの、虹の根元には宝が埋まっている、と信じていました。 
 「万物は流転する」と古代の哲人は言いましたし、仏教では、諸行無常諸法無我といいます。
     
 万物は流転すると言っても、諸行無常と言っても、私達は、その奥に本質的に変わらぬものがある、と考えたりします。それがイデア論であったり、物理学での原子論であったり、仏教のアビダルマ論であったりします。
    
 万物は変化する、そしてその変化は、自分にとって都合の良い変化であるとは限りません。
 稲の苗を植えて、秋には穂が実るのは良い変化です。良い変化を求めて、窒素肥料をたくさん上げたら、茎や葉っぱは伸びたものの、伸び過ぎて風に倒れ、思うような収穫に結びつかなかったりします。
      
 このように、私達は、ものごとは変化するが、その奥には変化しないものがあると考えたり、変化には因果があり、そこを触れば自分にとって都合のよい変化に変えることが出来る、と思ったりします。
     
 神経症という症状には、原因がある、癌やアトピーには、原因がある、その原因を取り除けば、神経症も癌もアトピーも改善すると私達は、ごく普通に考えます。
(ただし、神経症の原因として何を選ぶかは、そしてどう取り除くかについては同じではないでしょう)
    
そこで、共同主観という言葉が浮き上がってきます。
4-1. 共同主観
4-1-1. 対象として存在し、知り得るのは主観が共同して対象化できた存在である。
※ 「実際には…対象が既成のかたちで現前するわけではない。…判断があってはじめて…“性質を備えた対象”が構成的に定立されるというのが実体である。」廣松『認識』1979.2
4-1-2. 知識の媒体である言語も共同主観によって獲得された。
4-1-3. 対象として確認できるのはその言語によって指示、表現できる存在である。
4-1-4. すべての存在は知識として確認できた対象である。
とあるHPに書いてありました。
     
「ダメットにたどりつくまで (双書エニグマ) 」
金子 洋之 著には、
< 「草原、草原にいる蛙、それらを照らす太陽は、それらを眺めていようといまいと、同じようにそこにある」こう言った主張は、しばしば実在論(少なくとも外的世界についての実在論)の端的な表明だと考えられている。もしも反実在論と呼ばれる立場が、その名称からして、実在論を否定する立場だとすれば、そして実在論フレーゲの発言によって要約されるとすれば、反実在論とは、この発言を否定するような立場だと考えられるであろう。だが、反実在論がそのように捉えられるとき、それは、せいぜいのところ、旧来の観念論か、もしくは懐疑論の一種だということになりはしないだろうか。
 マイケル・ダメットは、観念論に陥るのでもなければ懐疑論に陥るのでもない、そういう反実在論の立場がありうる、ということを長年にわたって主張してきた。>
と書かれています。
    
 ダメット氏の著作はまだ読んだことが無く、書評には理解が難しいと書かれていましたが、「観念論に陥るのでもなければ懐疑論に陥るのでもない反実在論の立場」というのは、仏教を学べばお馴染みの考え方です。
     
原始仏典の中に「一切 」という経があります。
南伝 相応部経典35-23 一切
漢訳 雑阿含経 13-17 生聞一切
    
< この様に私は聞いた。ある時、世尊は、舎衛城の祗陀林なる給孤独の園にましました。その時、世尊は「比丘たちよ」と呼びかけ、彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。そこで、世尊は、つぎのように説かれた。
「比丘達よ、私はいまなんじらのために<一切>なるものを説こう。よく聞くがよい。比丘たちよ、何をか<一切>というのであろうか。眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身体と感触、心と法、比丘たちよ、これを<一切>というのである。」>
      
 哲学という学問は、存在論と認識論から成り立つ、と私は私の師から教わりました。
 存在論とは、「この世界の究極の存在は何かを問うこと」、認識論とは「その究極の存在を、人間はどのようにして認識するか、出来るかを問うこと」と。
 観察の理論負荷性とか公理系、構造主義、認知論、ナラティブとかも教わりました。
     
     
 又、学校では、医学と対比しながら衛生学を学びました。
 伝染病や食中毒という言葉を聞くと、私達はその発症の原因として、「細菌や微生物」と単純に思うでしょう。
 衛生学のテキストで、「パストウールが1860年代に白鳥の首フラスコ実検と呼ばれる画期的な実験を行い、生命の自然発生説を完全に否定することとなった」と習いました。17世紀のころまで、アリストテレスが、昆虫やダニは露やゴミなどから生まれてくると説いたこと、旧約聖書にあるよう創世主である神によって生物は創造されたということを、一般の人は自然発生説として信じていたようです。
 19世紀後半になると、ドイツのロバート・コッホ(1843-1910)が、家畜伝染病の病原菌の存在を突き止めました。ヒトの結核を始め主な伝染病病原菌は、19世紀末までにほとんど見つけられていきました。
    
伝染病の原因として、当然細菌が考えられるでしょうが、発生の原因となると、もっと深く考えることが大切になってきます。
    
やはり、衛生学のテキストには、マックス・フォン・ペッテンコーファーについて述べられていることでしょう。
ウィキペディアには
< 病気の発生理論に関わる見解の違いから、ロベルト・コッホらと論争を行い、コレラの病因論争において、コレラ菌を自ら飲んだエピソードでも知られる >とあります。
    
   
結局何を述べたいのかというと
物事は変化してやみません。変化には、何らかの因や縁があって変化していることでしょう。
苦しみという現象に対して、苦しみの原因を取り除くという医学モデルもあることでしょう。
しかし、私達は、苦しみの原因を特定できるのだろうか、原因を変えられるのかとも思うのです。
医学モデルだけが、解決法ではないとも思うのです。
  
 一切皆苦は、仏教の根本的な教えです。
 一切とは、「色」(物質的存在)と「受」(認識作用)である、とも別の経では述べられています。
色世界において、不落因果はありえないでしょう。色と受の接触において、不昧因果、未完成の完成は・・・・・。
 
 どこへでもどうぞ どこもふるさと しゃぼんだま
 返歌 どこへでもどうぞ どこも地の果て しゃぼんだま
 その返歌 しゃぼんだま そっとふくには 幼くて