生きる意義・意味

「生きたい」「死にとうない」という思い・力・方向性は、人間の基本的な思い・力・方向性だと思います。それは、言葉にできるような思い以前の思いだと思います。
 
 皮膚に傷がつき、出血すれば、治りたいと思う以前に、身体は傷ついた血管をすぐさま修復しようとします。例え、自殺を望み、鴨居に紐をかけるにも、橋の欄干を超えようにも、筋肉が生きようとしなければ、心臓が生きようとしなければ、遂行できません。
 
 マズローの欲求階層論を知らなくとも、誰もが身の内に生き延びようとする生理学的な力が奥深くあることを感じていることでしょう。
 
 だからといって、人間の全ての行動を、その基本的な力に名前(例えば食欲とか性欲とかリピドーとか)を付けて説明すると、味気ないようにも思います。できないことはないでしょうけど。
 
 大人になり、言葉を知り、世の中に起きていることを観察し知るようになれば、「どんなに生きたいと願っても、必ず老いて、旅立つ」というコトを認めていくことでしょう。
 
 そこから、「何があっても生きたい」という思いは修正されていくことでしょう。
 
 どのように広い土地の大きな家に住もうと、最期は、身の丈に合った棺桶に入るのです。
 
「生きたい、死にとうない、でも必ず老いて死ぬ、だったら、日々充実していきたい」と修正する人もいるでしょう。
 
 「生きたい、死にとうない、でも必ず老いて死ぬ、だったら、意義のある人生を歩みたい」と修正する人もいるでしょう。
 
 では、その意義や意味は、どのように創られるのか、構成されるのか。
 
 世間の側にある、世間によって作られる、と思う人もいるだろうし、自分が作るのだと思う人もいるでしょう。まるっきり世間の側にあるのだ、作るのだ、と思ってしまうと、それを得たり、到達するのが大変になります。
 世間など関係ない、自分が作るのだ、見いだすのだ、とは凡人にはなかなか言い難いです。
 そもそも、自他に分ける、自分と世間に二分することそのものが一つの仮説です。
 
 今の時期、ヤマモモの木に実がなります。多くの実が、地面に落ちています。一体一本の樹からどれくらいの実が落ちるのでしょう。そして、そのうち、どれくらいが芽を出すのでしょう。芽をだした後、幹を育てることが出来るでしょう。
 
 どのような時代であっても、人は必ず老いて旅立つのですが、幕末から明治にかけて生きた人々のことを想っていると、生きる意義とか意味の感じ方について、何度も自身に問い直します。
 
その時代の人々の生き様を追いかけていて、2013年のNHK大河ドラマは「八重の桜」で、主人公は新島(山本)八重であることを最近知りました。

八重は会津藩の砲術指南役の武家に生まれました。会津城(鶴ヶ城)に立てこもり、板垣退助の官軍とスペンサー銃や大砲で戦います。
籠城できなかった婦女子は、自刃する人も多かったとか。
  
意義は、世間にあるのではなく、無いのでもなく、自分の中に無いのでもないと思ったりします。