しっくりこない 百丈野狐 不落因果・不昧因果

百丈野狐(ひゃくじょうやこ) 不落因果・不昧因果 という言葉でインターネット上を検索してみると、数えきれないくらいのサイトがヒットします。例えば、gooだと百丈野狐で9440、不落因果・不昧因果で、23500件ヒットしました。
  
そこで、その上位にあるサイトを読むのですが、なぜかしっくりきません。
   
百丈野狐とは、「無門関」第二則にある公案です。
   
 原文となる漢文はおおよそ次のようになっています。
    
二 百丈野狐
    
百丈和尚、凡參次、有一老人常隨衆聽法。衆人退、老人亦退。忽一日不退。師遂問、面前立者復是何人。老人云、諾。某甲非人也。於過去迦葉佛時曾住此山。因學人問、大修行底人還落因果也無。某甲對云、不落因果。五百生墮野狐身。今請、和尚代一轉語貴脱野狐。遂問、大修行底人、還落因果也無。師云、不昧因果。老人於言下大悟。作禮云、某甲、已脱野狐身住在山後。敢告和尚。乞、依亡僧事例。師、令維那白槌告衆、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無人病。何故如是。食後只見師領衆至山後嵒下、以杖挑出一死野狐、乃依火葬。師、至晩上堂、擧前因縁。黄蘗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身、轉轉不錯合作箇甚麼。師云、近前來與伊道。黄蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑云、將謂、胡鬚赤。更有赤鬚胡。
無門曰、不落因果、爲甚墮野狐。不昧因果、爲甚脱野狐。若向者裏著得一隻眼、便知得前百丈贏得風流五百生。
   
    頌曰
  不落不昧 兩采一賽
  不昧不落 千錯萬錯
   
これを読み下すと
      
二 百丈の野狐
    
百丈和尚、凡そ参の次で、一老人有って常に衆に随って法を聴く。衆人退けば老人も亦た退く。忽ち一日退かず。師遂に問う「面前に立つ者は復た是れ何人ぞ」老人云く、「諾、某甲は非人なり。過去、迦葉仏の時に於いて曾つて此の山に住す。因みに学人問う、大修行底の人還って因果に落ちるや。某甲対えて云く「因果に落ちず」。五百生野狐身に堕す。
今請う、和尚一転語を代わって貴えに野狐を脱せしめよ」と。遂に問う「大修行底の人、還って因果に落つるや」。師云く「因果に昧さず」。
老人言下に大悟し、作礼して云く「某甲、已に野狐身を脱して山後に住在す。敢て和尚に告ぐ、乞うらくは、亡僧の事例に依れ」。
師、維那をして白槌して衆に告げしむ、「食後に亡僧を送らん」と。大衆言議すらく「一衆皆な安し、涅槃堂に又た人の病む無し。何が故ぞ是くの如くなる」と。
食後に只だ師の衆を領して山後の嵒下(がんか)に至って、杖を以て一死野狐を挑出し、乃ち火葬に依らしむるを見る。師、晩に至って上堂、前の因縁を挙す。
黄蘗便ち問う、「古人錯って一転語を祗対し、五百生野狐身に堕す。転々錯らざれば合に箇の甚麼か作るべき」。師云く「近前来、伊が与めに道わん」。黄蘗遂に近前して、師に一掌を与う。師、手を拍って笑って云く、「将に謂えり胡鬚赤と。更に赤鬚胡有り」
   
無門曰く「不落因果、甚と為てか野狐に堕す。不昧因果、甚と為てか野狐を脱す。若し者裏に向って一隻眼を著得せば、便ち前百丈の風流五百生を贏ち得たることを知り得ん」。
   
頌に曰く
不落と不昧と、両采一賽(りょうさいいっさい)。
不昧と不落と、千錯万錯(せんしゃくばんしゃく)。
     
    
更に現代語訳にすれば
     
百丈の説法に必ず参禅する老人がいました。いつもは、説法が終わると他の人と共に退出するのですが、ある日老人は退かず一人残ります。百丈は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と声をかけました。
     
老人は「私は人間ではありません。大昔この山この寺の住職として住んでいました。ある時、一人の修行者が私に質問をしました。『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』。私は、即座に、『不落因果――因果の制約を受けない』と答えました。その答えの故にその途端、わたしは野狐の身に堕とされ五百生(五百回の生まれ変わり)して今日に至りました。正しい見解をお示し助けて下さい」と懇願しました。
       
そこで、この老人が百丈に同じ質問を問いました。「禅の修行が良くできた人でも、因果の法則を免れることはできないのでしょうか?」。
     
百丈は即座に「不眛因果」(因果の法則をくらますことはできない)と答えました。
老人は百丈の言葉によって大悟し、礼拝して去りました。その大悟にて野狐の身を脱することができたといいます。
この問答のあと、百丈は寺の裏山で死んだ狐を亡僧法に依って火葬しました。
     
さて、夜になって百丈和尚が弟子達にこの話をすると、弟子の黄檗が、「古い時代の住職が、もしその言葉をまちがえなければどんな結末になったんでしょうか? 」と質問しました。百丈が「もっと近くへ来い、教えてやろう」というと、黄檗は進み出て、先んじて和尚の横面を殴りました。百丈は手を叩いて笑い、「胡の人は髭が赤いが、赤い髭の胡人が居る。(ここにももう一人達磨がおったわい」といいました。
        
無門曰く 「不落因果というとなぜか野狐に身をおとし、不昧因果と言えばなぜか野狐の身から脱することができた。もしこの話を聞いてほとけが真理を観るために使うという一隻眼を身につけることができれば、その瞬間に百丈のいう風流五百生 をすでに勝ち得ていることに気づくだろう。」
     
頌に曰く
不落と不昧と、兩采一賽なり。
不昧と不落と、千錯萬錯なり。
     
「不落と不昧は二つの皿に盛った料理であり、さいころの裏表のようなものである、不昧が千回の間違いとすれば、不落は万回のまちがいといったものである。」
    
    
という内容で、原文を知るには、図書館へ行かなくても済みありがたいことです。
     
 後半の、黄檗が師匠の頬を打つあたり、無門の解説は、禅宗らしく幾重にもひねった内容です。
    
    
     
 しかし、意訳になるとなぜかしっくりきません。
      
「このしっくりこない感じは、どうしてうまれるのかな」と考えてみました。
     
 多くのサイトが、語訳や文章訳だけで、しかもその訳は、誰か先人の訳を紹介しているサイトが多く、そしてそれがちっとも、現実日常の苦しみとの結びつきを書いていないからと思いました
      
例えば
 ある日の健康診断で、思いがけず癌が見つかった。レベル2まで進んでいる。医学治療を選択するのかしないのか、しないとしたら家族や身の回りのものとどう関わるか、選択するとしたらどのような治療方針でいくか? さてこのことにおいて、不落因果とはどのように対処することか、不昧因果とはどのように接することか。
      
 もちろん、ここで正解など書けないと思います。その時、その人によって、それこそ因縁果が違います。サイトの中に、「生身の言葉」を求めることの適切不適切を自身に問い直すことが必要かもしれません。
 
こうして、しっくりこないベージを、私自身さらに増やしてしまったかもしれません。
もし今このページを読んでいるあなたが、「生身の言葉」を求めているとしたら、090‐6987‐6679へどうぞ。