見えても触れることのできない「虹」と、触れることのできる「石」の同じところはなんでしょう。
人によって、応えは違うだろうし、そもそも「同じ」とか「違う」ということの意味が難しい。
私の応えは、どちらも「モノ」が織りなす「現象」であること。(諸行無常、諸法無我)
虹は、ヒトや空気や水や光というものたちが、相互作用しあって現象している。
石だって、石英や長石や雲母といったモノたちと水や(かつての)重力の作用によって、現象している。
ただ、その現象の変化のスピードが違う。
ゆったりした現象の変化をあまり観察したことのない人は、この世は名づけられた「モノ」が集まって出来ている、という素朴実在論な見方になりやすい。
わたしもまた、「現象」
「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。」 宮沢賢治。
一切は変化しており、その変化を、「私」が私の思うままにはできない。
故に、一切皆苦。
なのに、ヒトは周りを、自分の思いのままにしようとして、齷齪する。
常識や、法律で ヒトを規制できると、自分の中に自分の法律を作っている。
常識もまた変化し、人間の作った法律もまた変化していくのに。
と同時に、自分が自分で作った、あるいはつくられた法律は、その存在にかえって気づきづらいし、変えることも難しい。
変えるにあたっては、変えられたら「成長」といわれるが、危険を伴い、変えられずそのまま崩れていく人もいる。
日本人の大人なら、鶏の鳴き声は、「こけこっこ」と聞こえるのではないだろうか、他の国のコトバを話せるようになっても。
コケコッコーは、仮定されたもの。
昨日見たドラマの中のことばの意訳。 違訳?
ヒトは、何かを観、何かを感じることができる。
何事かをなさなくとも、観て、感じて、それだけで充分。
試行錯誤を繰り返し、創造し続けること。