生きることを綴りましょう

 毎年の事なのですが、春夏秋の時期は、通信制大学の学業がなかなか進みません。原因は分かっています。テキストを読んでいるうちに、道草を食ってしまうからです。
 今は学校カウンセリングのテキストを読んでいます。日本の教育史について、以前から流れはつかんでおきたいと思っていたのですが、テキストの中に、

<当時(大正時代)のさまざまな児童中心主義の教育実践から「文芸主義の綴り方」教育が生まれ、1930年代には「生活綴り方」教育の運動が始まり、全国の学校にも広がっていった。><「生活綴り方」は1940〜41年の中心的指導者検挙によって中断され>とありました。
 
 私は、いつの時代であっても、自分の想いやイメージをデジタル化とアナログ化できることは大切と思っています。

自分自身を知り、隣人の事を知り、世界の事を知り、そのことによって、お互いの関係を調和的なものに制御するためには、よく観察し、秩序を見出し、あるいは仮設し、それを表現化していく力が大切と思っています。

あるいは、どんなに観察しても、表現しても、世界そのものを知るということは私達人間にはできないことかもしれなくて、しかし、実際に関係を作っていくには、自分の行動を制御する必要があり、そのプログラムを作る力が必要と思っています。
そして、プログラムの混乱が、悩みや苦しみ、病理であるように思っています。私の混乱あるいは秩序づけられた世界は、私のことば(言語・記号)によってつくられている面もあるように思います。(写像論と記号論
 (プログラムをより調和的なプログラムに書き換えていくためには、メタプログラムと瞑想が必要なのでしょうね。プログラムを改訂・バージョンアップで済む場合もあれば、プログラムそのものを取り換える必要な場合もあるでしょう。)
 (プログラム改訂の例 1.一発やられたら数発殴り返せ。 これは復讐の増幅を生むので、 2.目には目を、歯には歯を  しかし、これも実際は、喧嘩の持続になるので 3.恨みに持って恨みをもってすれば恨みつきることなし。仏道者。 一方の頬を打たれれば、もう一方の頬も出しましょう。キリスト者。)

ヴィゴツキーが、詳しくその辺のことを、最近接領域とか内言という表現で解説しているようですが、そこまでの道草の余裕はありません。)

しかし、今の教育では、自分を知り、隣人を知り、世界を知る力、秩序を仮設する力は育っていないように思うのです。

 ですから、論文やレポートを書くこと、人の前で語ること、歌うこと、朗読すること、演技すること、絵を描くことなど、の講座を開いてきました。
 
 インターネットの時代となり、また携帯の時代となり、自分の想いをブログで書く人は増え、しゃべったり歌ったりする機会は増えた、と思うのですが、例えば、話芸の出来る芸人が少なくて、一発芸人がとても増えたように、自分を知り、隣人を知り、世界を知り、調和的な関係、響き合う関係を作るような力はあまり育っていないように思うのです。
 
 そこで読み始めた本が、佐野眞一著 無着成恭と教え子たちの四十年 遠い「やまびこ」
文春文庫 1996年 です。
 
 山を楽しむには、山屋と沢屋があるようで、山屋さんの方は、是が非でも目標を達成することに努力し、沢屋さんは、無理せず、過程を楽しむようです。
 
 私も今は、卒業という頂上を一応目指していますが、あちこち道草し、過程も味わっています。