響きあう世界へ

「苦しみ」という言葉は、サンスクリット語では、「duhkhaドウフカ」といい、「思い通りにならない」という意味があるそうです。

 仏教では苦しみを、四苦八苦に分類します。
 生老病死の四大苦と、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四苦を言います。
 
 苦しみは、個人の存在そのものから生まれるという捉え方ができます。
 老いること、病むこと、死ぬことの苦しみは、時代や境遇を超えて、誰もが抱える課題であるという捉え方です。
 
 また、苦しみは、個人の内面から生まれるという捉え方もできます。葛藤という言葉が示すように、個人内部の不調和が苦しみを生み出していると。

 更に又、苦しみは、個人と他者、個人と外の世界との不調和・対立から生まれるという捉え方もできます。
 ある心理療法家は、人間の苦しみはほとんどが「対人関係苦」だといいました。


苦しみというものを、「不調和」ということから考えたいと思います。

 今ある具体的な苦しみに対して、個人を取り巻く外枠には問題がなく、苦しんでいる個人(内部)に問題がある、という捉え方ができます。
 反対に、個人に問題はないが、その個人を取り巻く外枠に問題がある、という捉え方もできます。
 
 こういう笑い話があります。家族で掃除をしていました。お母さんが雑巾バケツに足を引っ掛けました。お母さんは言いました。「誰よ、こんなところにバケツを置いたのは!」しばらくして、一緒に掃除をしていた息子さんが、同じように雑巾バケツに足を引っ掛けました。お母さんは言いました。「あんたはいつもそそっかしいんだから、気をつけて歩きなさい。」
 
 ある苦しみの解決において、ある個人と他者が対立している時、あるいは、ある個人と外枠との間に不調和がある時、個人に問題アリと捉えれば、その解決は、個人を外枠に合わすこと、調和させることになるでしょう。
 しばしば、強者の論理で弱者を、多数者の論理で少数者を、その強者、多数者の側の論理に添わせることが解決である、とすることが見られたりします。
 例えば、かつて、ある時代、同性愛は異常であり、犯罪と見られたことがあります。ところによっては、現在もそうでしょう。
 
 「最大多数の最大幸福」ということばがありますが、「多数である」という判断、「こちらの選択肢がより幸福である」という判断は、いったい誰がするのでしょう? そもそも「幸福」であるとかないとかも誰が決めるのでしょう? また幸福こそが価値なのでしょうか?
 
 私たちの外側に、唯一絶対の真理とか、基準があると信じていた時代がありました。
 また、私達は私たちの「理性」によって、その真理を知り、その真理に添った生き方ができると信じていた時代がありました。今でも信じている人がいるでしょう。

 しかし、ナチスドイツは、その当時一番民主的な憲法と言われたワイマール憲法のもと、国民の90%以上の支持を得てできた政権です。私達に理性に基づく科学技術は、原子爆弾を発明し、実際に投下されました。
 
 自分の外に生きる指針が見いだせない、自分の内部にも生きる指針が見いだせない、そういった状況では、人は混乱し、生きていけないと思います。
 ですので、何らかの権威に闇雲にすがったり、自分個人を肯定したりして、何とか生き抜いていこうとすることもわかります。
 
 しかし、今私の日常の暮らしの中で、私が厄介と感じているのは、「強くあらねばならぬ。」「正しくあらねばならぬ。」「豊かであらねばならぬ。」と思い、「自分の弱さ」「正しさの相対性」を認めようとしないで、周りの人々にも自分の正しさを主張しようする人です。
 
 というか、私自身がそうなのだと思います。
 
 昨日、また忍辱の修行に躓いてしまいました。
 
 左の頬を打たれて、「痛い」といったら、「叩いていない」と言われました。
 そこで「あなたは触れただけだというが、私には痛かった。」と更に言ってしまいました。