合併について、街角に立って、語りかけてきました

日本全国で、市町村合併が進められた。そして今もまた進められている。
国のうたい文句は、「地方分権の推進」「生活者の視点に立つ<地方政府>の確立」となっているが、実際は、交付するお金が不足しているので、自治体の数を減らして、効率化し減額しようということだろう。
 
 この市町村合併が、我々の人生の充実、苦の滅につながるのなら、賛成しよう。しかし、予測されるのは、さらなる国債の発行、地方債の増加であって、借金がふえるばかり。地方行政力の低下、公共料金の値上げなどである。
 
もともと日本の地方自治は、三割自治といわれて、財源を中央に依存している。また、通常でも、平均して約13%を地方債に頼っている。国も地方も、借金で成り立っている。どの地方自治体も苦しいのは事実。このままだと、多くの自治体が、財政再生団体になる可能性があるのも事実。
 
那智勝浦町新宮市の合併でいえば、新宮市の平成17年度の経常収支比率は、102で、全国1800ある市町村のうち、ワースト51位である。
平成20年3月の新宮市議会の議録によれば、何人もの議員が、新宮市の経済は破たん寸前であると発言している。ある議員は、熊野川町との合併でごまかしているとも発言している。
 
那智勝浦町の住民は、そういうことを知らされないまま、あるいは、知ろうとしないまま、「(合併しないと)このままでは夕張市のようになりますよ」といわれ、国策だから、町長が決めたことだからと、内容を確かめないまま、合併は仕方ないと思ってしまったりする。
 
で、心理学との関係
行動の変容には、今までの行動を支えていたビジョンとは違うビジョンが必要だと思う
自分の場合、それは経済でいえば「地域通貨」なのだが、地域通貨がどのようなものかを伝えるにはそれなりの時間と場所が必要になる。(地域通貨を学べ、実践できるあるシステムを開発中)
 心理学は、苦の滅の学問だと思っている。行動の変容が、苦の滅につながると思っている。そこで、個人の行動の変容と、他者の存在、社会との関わりはどうなっているかを考えねばならない。
 
もともと発言した人の名前を忘れたが、「人間は社会的動物である」。人間に限らず、動物にしても、植物にしても、バクテリアにしても、ほかの生命や環境との関わりなくして、存在しえない。(魂は存在し得るという人もいたりはするが、ここではおいておく)
 
環境や他者と対立したり、不調和に陥っては、生き延びることができないから、結局は、個々の存在は、全体との関係に於いて、調和する方向を選択する、と考える人がいる。
 あるいは、個々の営みは、バラバラで利己的であっても、やはりあまり利己的な行動は淘汰され、全体としては、調和すると考えたりする。
 これはあまりにも思弁的な感じがする。
 個々の行動は、他者との関係性の中で決められるとだけしておけばいいと思う。
 また環境が個々の行動を制限するのも、観察される。日本に生れ、日本語を話す家庭に育った子供が、突然ドイツ語を話し始めることは考えられない。(前世の記憶とかで、あるかもしれないという人のこともここでは置いておきます。)
 
何を言いたいかというと、他者や社会が、自分の意のままの変化、変容をするとは思わないが、ここで私の行動を変容させると、何かが変わるということ。(難しく言えば複雑系創発?)
 
それで、今日は、勝浦の街角に立って、あちこちで、ハンドマイクで、合併について語ってきた。
選挙の時、政党に属する人が、アピールしたことはあっても、普段の日に、何でもない一町民が、町民に語りかけるというようなことは、この町ではなかったと思う。
 さて、どういった反応が出てくるだろう?