天に向かってのびのび

私たちが、ある「もの」「こと」「それ」が、確かに「ある」「起こっている」「実在する」と、「認め」たり、「思ったり」「確信したり」する根拠はなんだろう。
あるいは、どういう過程を経て、「認め」「確信」するのだろう。

 日常の中では、
 「実際目に見えているから。」「実際手に触れることができるから」「実際感じているから」という理由、つまり、自分の感覚で感じているからという理由で、疑いもしない。

 (またいちいち疑っていては、日常生活を送りにくいということもある。)

 これだけでは不十分かもしれない。実際目に見えたり触れたり感じたりし、「不都合なことが起こらなかったら」、「大抵の人」は、自分の見えているもの、触れているもの、感じているものに対して、疑ったりはしない。
 「大抵な人」と表現したのは、不都合なことが起こっても、自分の感覚を信じる人もいるからだ。
 
 逆に、不都合なことが起こってなくとも、自分の感覚を疑う人もいる。
 
 私達の普通の感覚では、起きている時、目に見えている「もの」「こと」「それ」は、何らかの境界を持ち、区切りを持ち、存在し、現象しているように見える。
 それぞれに名付けられた「もの」「こと」「それ」が集まって、この世界を作っているように見える。
 
 しかし、ある人々は、そうやって何の不都合もなく、色々なものが、ことが、それが集まってできているように見えるこの世俗世界に対して、果たしてそれは目に見える通りなのだろうかと疑いと探求の目を持つ。
 
 どのような人が、どのように疑い、探求し、どのように答えを出すか、それぞれについて考えることは、今ここでの主題ではないので、一先ずそれは棚上げするが、
 
「苦しみはいかにして生まれ」「苦しみは如何にして滅するか」をテーマとする人は、やはり、自分の見ていること、触れていること、感じていることをひとまず疑ったりする。
 
 そして、瞑想により探求する。
 
仏教徒や瞑想者や言語哲学者や心理学者や唯名論者や構造主義者のうち、ある人々が見出した一つの答えは、「色受想行識」
 
「もの」「こと」「それ」が「ある」「起こっている」と「思ったり」「信じたり」「認識」したりするときには、「感覚と言語」が関係しているということだろう。
 
 もっと具体的にいえば、「苦」が存在する、「苦しい」と感じる過程、「これは苦しみだ」と感じ、認識し、行動する過程には、確かに感覚、肉体が関与しているが、言語も深く関与しているということ。
 
 誰だって、極度な空腹は避けたい。極度な寒さ、暑さは避けたい。痛いことは避けたい。暖かい方がいい。安心して眠れる方がいい。語り合う人がある方がいい。
 
 快を求め、不快を避けようとする。
 
 しかし、いつも快の状態に居れて、不快な状態から遠ざかって居れるわけではない。
 
 
 ゲッセマネでのイエス・キリストの祈りが、聞こえてくる。
 
 「どうかこの杯を私に差さないでください。しかし、わたしの願いでなく、お心が成ればよいのです。」(福音書 岩波文庫
 
 苦しみは受け入れがたい、しかし、それを自ら受け入れる時、苦しみは苦しみであって苦しみでなくなる。
 
 「誰でも、私について来ようと思うものは、先ず己を捨てて、自分の十字架を負い、それから私に従え。十字架を避けてこの世の命を救おうと思うものは、永遠の命を失い、私と福音とのために、この世の命を失うものは、永遠の命を救うのだから。」(岩波文庫
 


 私は今、今まで味わったことのない安らぎを感じていますが、これはあくまで「私の安らぎ」であり、それをそのまま私の隣の人に渡しても、「安らぎ」にはならないだろうと思っています。私も、その両手でしっかりと何かを握りしめている人に対して、手を緩めましょう、とも言いません。言い方をやさしくしても、届かないことだってあります。傍で両手を天に向かって伸ばし、のびのびしたりはするでしょう。そして、その人が、疲れ、そして握りしめていた手を緩めた時、そこに注がれるだろうとも、思います。


数々の遍歴、流浪、求道と過ちのあと
ある人が回心し
大いなる存在に向かって、こう述べました。
「あなたの望むようになさってください。」
すると、それに対して、声が響いた。
「では、あなたよ。あなたの好きなようになさい。」