不思議なこと

ある御方が、
「弱さと神の慈しみ」−テレーズと共に生きるー 伊従信子訳・編 サンパウロ発行 という書籍を贈ってくださいました。
 
 スピリチュアリティの遍歴をしていると、聖テレーズの名前がしばしば出てきます。
急がずに、読んでみようと思います。
 
触発されて湧いてくることを、書いてみようと思います。
 
本の最後にマリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンの年譜があります。
1873年生まれとあります。
 
1873年から私がイメージしたのは、1874年に起きた「メアリー・エレン事件」です。
 
 メアリー・エレンは、2歳から虐待が通告される8歳まで、養父母から、6年間心身の虐待を受けました。詳しくは、ウィキペディアの「メアリ・エレン・ウィルソン事件」をご覧ください。
 
 ウィキペディアから一部抜粋します。

 < メアリー・エレンは夜間に庭に出る以外は外に出ることを許されず、牛革製の鞭で毎日叩かれ、体中と頭中にはあざと傷跡が絶えず、額にはハサミで殴られたことにより作られた大きな傷跡が残っていた。 >
 
< メアリー・エレンは叩かれ、働かされ、日の下に出ることを許されず、クローゼットの中に何日も閉じ込められ、ほとんど風呂に入ることを許されなかった。 >

 < くつを持っていたことはあるがいつのことかは憶えていないという事実、その年の冬に靴と靴下を与えられなかったという事実、夜間を除いてはコノリー夫妻(養父母)のいた部屋からの外出を認められなかったという事実、外出が認められても庭までであったという事実、自分は窓の下にあったカーペットの切れ端の上で寝ていたという事実、就寝の際は下着のみを着用し布をかけ布団にして寝ていたという事実、友達を作ることを許されなかったという事実、ほぼ毎日コノリー夫人に特製のむちで叩かれていたという事実、叩かれ常に痣と傷だらけであったという事実、頭に黒と青の痣があったという事実、コノリー夫人にハサミで叩かれひたいに傷ができたという事実、自分はだれからもキスをされたことがないということ >

 < メアリー・エレンの事件は当時の児童たちが置かれていた状況の氷山の一角にしか過ぎなかった。当時のニューヨークではたくさんのこどもたちが物乞いをしていた。 >

< メアリー・エレンは24歳で結婚しエタとフローレンスという名前の二人の子をもうけ、後にユーニスという名前の女の子を養子に引き取った。エタとフローレンスは教師になり、ユーニスはビジネスウーマンになった。メアリー・エレンの孫たちは祖母のことをやさしく、あまりしつけに厳しくない人だと言っている。メアリー・エレンは自分の虐待について多くを語ることは無かった。 >
 
< メアリー・エレン・ウィルソンは1956年に92歳でこの世を去った。 >

 テレーズは、1897年に24歳で、この世を去っています。

 メアリー・エレンが何かを書き遺したかどうかはわかりません。しかし、その存在、生きた姿が、多くのことを私に語りかけてきます。
 
 
 ちいさきもの よわきもの
 
大きくなろう、強くなろう、豊かになろうと、私は私なりの努力を積み重ねてきました。
 
 地図として、方法論として、仏教を選びました。
 六波羅蜜 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧を実践しようとしました。
 
 しかし、「忍辱」で躓いてしまいました。
 
 躓いたところに、聖書がありました。
 

 昨夜は、仕事場から家へ帰る車の運転中、「ああなんて自分はなんてちいさいそんざいなんだろう」と突然感じました。とても寂しくなりました。
 
 一夜経ち、先ほど仕事をしながら、再び、その小ささを反芻していて、忘れていた不思議な体験をいくつか思い出しました。
 
 二度死にかけ「ああ生かされている」と感じたことは、たびたび語ってきたので忘れていませんが、今思うと、死ぬか、大けがをしていてもしかたなかったのに、そうならなかった不思議なことが他にもあります。
 
 小学生の頃、海岸の断崖絶壁の上にある雑木林の中を歩いていて、からだを支えたつもりの木が、実は枯れていて、突然折れてバランスを崩したことがあります。眼下の磯が見え、落ちた、と思いました。でも、からだがふわっと回転し、落ちずに済みました。 後ずさりしていて、後ろ向きに急斜面を滑り落ちたこともあります。 ふわ〜と滑る感覚があり、気がついた時には、斜面の下であおむけに寝ていました。用水路のコンクリートの土手の縁ぎりぎりに自転車を止めていて、ふざけていて、用水路の側に傾き、落ちると思ったのに、立て直ったことがありました。 他にも、大けがをしていただろうに無傷で済んだいろいろなことを思い出しました。 自分が不思議と思っているだけで、物理的、客観的、他の人から見れば不思議でなかったことかもしれません。誰にでもある体験かもしれません。

 でも、自分の小ささと共に、忘れていた「私にとって不思議な体験」を思い出しました。
 
 これまでの人生を思い出せば、いつも誰かが傍に現れてくれて、導いてくれます。
 
 本の中にこんな一節がありました。

「 ときとして、自分がおもわず光るものを望んでいるのに、気がつきます。そんな時には、謙遜に不完全な人びとの間に身を置いて、自分は一瞬ごとに神様の助けを必要とする小さいものだと思いましょう。(39)」 30頁