河合隼雄先生は、心理療法を四つの型に分類したそうです。
医学モデル、教育モデル、成熟モデル、自然モデルと名付けたと聞きます。
そもそも近代以後、最初に心理療法に携わった人が、ほとんど医師だったので、先ず第一に医学モデルがあげられるのはその通りだと思います。
時代の背景として、科学的な心理療法を目指したのだと思います。キツネが憑いたとか、たたりとか神罰という説明ではなく、症状には原因があり、その原因を取り除けば、症状は改善されるという科学的な見方で解決したかったのでしょう。
同じように、医師ではなく教育者が、相談者の中にある原因を明らかにして、取り除くことによって症状が改善されるとするならば、医学モデルと教育モデルの差は、誰が原因を取り除くかの違いであって、原因除去による症状改善という構造は同じだとおもいます。
人生には、理性に基づいて、因果関係を説明するのが難しいことが多々あります。
それを、私達は
不可解、不可思議、不条理、理不尽なことと表現します。
そういったことを、人間の言葉では説明しかねるけれど、人間存在を超えた大いなる存在が決めたことと説明したりします。
人間の能力には限界があるのですが、歴史を振り返ると、大いなる存在が決めたことという説明には飽き足らず、人間の観察、人間の言葉で説明しよう、説明できるのだと思い、実践するようになりました。
いつしか、全ての出来事は人間の知性と理性で説明できるのだと思う人々もあらわれました。
説明だけでなく、未来の出来事を予測し、制御できるのだとも思う人々が現れ、それを科学と呼んだりしました。
しかし、
科学は、科学自身を科学することによって、その限界性、不完全性を自覚することとなりました。
医学モデルにしろ、教育モデルにしろ、医師、心理療法家が、唯一絶対の真理、正解に気付いていると前提し、医師や心理療法家が真理に添って、相談者を操作しようとする構造があるように思います。
しかし、科学哲学の発達により、唯一絶対の真理がたとえあったとしても、それを不完全な人間が知りうるのか、という疑問の中で、真理は、仮説ということになりました。
( エディプスコンプレックスや抑圧は、真理ではなく、仮説となりました。)
そういった背景の中で生まれてきたのが、「ナラティブ」という考え方だと思います。
「唯一絶対の真理」ではなく、「構成された真理」とでもいいましょうか。
私は私の中で「公理主義」というイメージを持っています。
さてそこで「信じる」ということを、どう捉えるかです。
信じるという言葉に抵抗があるなら、
「これあるによりてこれあり」と認めるか認めないか、だとおもいます。
私は「これあるによりてこれあり」を物語として認めます。
私達は、数学で、点とか線という言葉を使います。
点や線は、面積を持ちません。面積があれば、点でも線でもありません。
疑いもなく、点も線もあるとして、数学を学びます。
これが「これあるによりて、これあり」のひとつの例です。
点や線以外にも、「これあるによりてこれあり」と信じることによって物語を始めることができる基本概念、無定義語があるように思います。