弱さと神の慈しみ

昨夜は、眠る前の黙想に、「弱さと神の慈しみ」 テレーズと共に生きる を読みました。
 
67頁に
一修錬女に
 「 あなたの望みや希望に限度をおくのは、神の無限の慈しみをみくびることです。神の慈しみの果てしない望みは私の宝です。(112) 」
とありました。
 
 春からは、通信制大学の4回生になります。
 54歳にして、大学で学び始めた理由一つには「不安」があります。
 我が家の子供たちのことをおもった時、自分がこの世からいなくなれば、彼らはどうやって生きていくのだろう。彼らが所属し、何とか生きていける組織体を残したい、と思って、新たな事業展開を考え、その為に学び直すことにしました。
 
 「不安」だけが理由というわけでもありません。
 
 その前年、痔の手術を受けました。
 体にメスを入れるのが嫌で、20数年放置していました。
 ボランティア活動を含め、土日の方が忙しい過度の活動・仕事の結果、手術前には、月のうち半分は出血し、ヘモグロビン値が、正常の三分の一まで下がってしまいました。
 速足で歩けなくなり、ある日とうとう、からだ全体が鉛のようになり、それで手術を受けることにしました。自分では、心臓に疾患があるのだと思っていました。時々、狭心症の症状が出ていたし、父も心筋梗塞で亡くなったからです。病院へ行って、心臓は悪くなくて、ヘモグロビン値が三分の一まで減っていることを知りました。今から考えると、ヘモグロビン値が少なくて、酸素の少ない血液だったから、心臓が頑張っていたのでしょう。
 
 ともかく、術後、新たに生まれ変わり、基礎から学んでみたいと思ったのです。
 
 学び始めてみると、思うようには進めない時もあり、そんな時は、めげてしまいました。
 
 昨年は、教科書以外の参考書にはまってしまい、大航海時代以後の歴史を読みふけっていました。それで、年末での取得単位は、ゼロという状況でした。年末から期間ぎりぎりまでレポート提出やら試験を受け、思っていた以上の単位を取得できました。
 
 そんな中で、強いて勉めること、つまり「勉強」が楽しくなりました。
 あまり関心のないこと、既に分かっていることと自分では思っていても、強いて与えられた課題と向き合うことで、目が見開かれたという感じがします。今まで学んできたことがあっちこっちネットワークとして結びついていきます。三つ四つのからだでは足りません。しかし、からだはひとつですし、普通に考えると、年齢も若くありません。
 
 しかし、単に私の為ではなく、また私の家族の為でもなく、世界に、隣人に貢献したいと思っています。その為には、もっともっと学びたいと思っています。
 
 と同時に、いつ果てたとしても、また満足です。
 
 今は子供に関する不安はありません。
色んなことがあるでしょうが、その都度学べばいいことと思っています。
 
 必要ならば、わたしを通して、一人一人を通して、世界へ、隣人へ、注がれるという思いがあります。