概念眼鏡

朝目覚めてから、すでに3時間ほど経過した。
布団をたたみ、朝食の用意をして、食べて、ごみ出しの日だから、ごみをまとめ、自家用車で仕事場へ行き、あれこれ仕事の段取りをし、定時に仕事は始まり、暇を見てパソコンに向かっている。
 
さて、起きだしてから、今まで、どれほど自分は自分の自由意思でこの3時間を生きただろうか?
 
じっくり振り返ってみると、環境からの刺激に応じて、社会システムの中に組み込まれ、習慣に従って、反応して行動したように思う。
 
もし、朝起きたとき、自分が狐だったらどうしただろう?
 
えさを求めて、えさのありそうな所へでかけたのではなかろうか?
 
と思うのは、近所の雌の野良猫が、シャッターを開けた途端、入り口にやってきたからだ。
 
この野良ネコの親の親から知っている猫で、目の開いて直ぐのよちよちあるこのころから、えさを与えてきた猫だ。
 
しかし、一定の距離を保ち、一向に慣れようとしない。
 
彼女には彼女のルール・こだわりがあるのだろう。
  
同じ猫であっても、家で一緒に暮らしている「ミーちゃん」とこの野良の「サビ」では、したがっているルールが違うだろう。
 
野良猫にしても、自分にしても、今生きている環境からの規制を受けて生きている。
 
私達の行動の基本にあるのは、やはり生得的な反射にあるように最近は思う。
 
そして、その生得的な反射の段階で、すでに個体差があると思う。
 
その個体差を基礎にして、レスポンデント反応・学習を身につけ
オペラント反応・学習を身につけていく。
 
当然個体差があるだろう。
 
この個体差は、それなりに理由のある個体差だろう。
 
個体差があるからこそ、社会は一定のルールを定めるのではなかろうか。
 
気を付けたいのは、社会生活を送っているうちに、個体差のことを忘れてしまう事。
 
概念思考をしているうちに、目の前のそのものがみえなくなってしまう事
 
概念・言葉で創られた世界に生きているのが当たり前になってしまい
 
ところが、概念・言葉で創られた世界とは別の世界に生きている人々のことを
最近知るようになった
 
すると、今までとは違った世界の見え方も何となく味わえるようになってきた
 
というか、今見えている世界から、概念・言葉要素を外したような感じ
 
意味づけられた世界が、薄らいでいく
 
見えていない世界は、触れていない世界は、消えていく
 
明日もなく、昨日もない まるで刹那主義的な世界
 
幸い、感覚器のフィルターは、適度に動いてくれている(と思う)
 
概念・言葉は、幸せな意味づけをしてくれるが、同時に不幸な意味づけまでしてくれる
 
こうしてみると
 
瞑想というのは、自分で、概念・言葉の眼鏡を外すことでもあったように思う
 
必要に応じて、眼鏡をかけ替えることが出来る方が、生きやすく、豊かになるように思う
 
社会生活は、概念・言葉眼鏡を架けざるを得ない
 
そうして、かけているのが当たり前になってしまったりする