上達と添削とラポールと世間と

どの道であれ、独学のみで上達していくのは難しい
 
短歌や俳句の世界には、上達の道として「添削」がある
 
出来上がった作品を師匠や仲間にみてもらい、

自分が気づいていない「こだわり」「かたより」「おもいこみ」など
不十分なところ、未熟なところと感じたところを指摘してもらうのだ
 
だから、ある会派に参加するということは、
 
単に名を連ねるということだけではなく、
 
作品に対する忌憚のない指摘を受けとります、という契約も含まれる
 
ところが、この契約があいまいのまま、会が持たれたりする
 
だから、会の主催者は、最初に会の添削の作法について述べるのが望ましい
 
又、添削するには添削するだけの力量と技量と質が求められる
 
赤線を入れればいいというものでもない
 
ただ単に正常とか健康とかいう基準枠をつくり
そこに嵌め込めばいいと云う訳ではない
 
長い間ともにしてきた「こだわり」は、そのひとの大事な一部でもあるからだ
 
受ける側も、受け入れますよと覚悟し、契約し、依頼したものの
 
いざ、自分のこだわり、かたより、おもいこみ、と向き合うのは
 
これもまた、力が要る
 
上達には、産みの苦しみが伴う
 
添削というのは、「断崖の際まで一緒に行くこと」だから
 
そこで、「世間」というものが面白くなる
 
契約もラポールも何もないまま、容赦なく、言葉を浴びせてくる
断崖の際に追いやったりする
  
生きるというのは、師匠と友達とだけ生きることではなく、
 
世間にも足を突っ込まないといけない
  
かく言うものの 
自覚のないまま、自分も世間の一部になって
契約もしていなく、依頼されたわけでもないのに、批判者になっていたりする
 
ともかく
短歌、あるいは俳句を始めましょうよ
エッセイを書いてみましょう
楽器を奏でてみましょう
 
つまどいの朝の抱擁法師蝉