ことばと私たちの苦しみ そしてその解決

 キーワード
 ことば、行動、心理、認識、ナラティヴ、仮説(けせつ)、ヴィゴツキー、内言
 
 熱い鍋にうっかり触れてしまうと、思わずさっと触れていた手をひっこめます。これは、生理学では、「反射」といわれていて、指先で受け取った刺激信号が大脳に届くのではなく、脊髄に届き、脊髄から手を引っ込めるように、筋肉に指示が出ます。
 こういった行動には、「ことば」が介在していません。「いま私は熱いものに触れている、このままでは火傷する。手をひっこめなくては。」と、認識したり、思考したり、判断したりして、行動になっているわけではありません。
 
 有名な反射のひとつに、「モロー反射」があります。出生直後から頸の座る時期までに新生児に見られる原始反射で、赤ちゃんの顔を正面に向けて上体をちょっと起こした後、 頭を急に落とすように動かすと、赤ちゃんは両腕を大きく延ばして、「ばんざい」をするようにひろげた後で、 ゆっくりと何かに抱きつくように抱え込む動作をします。

 このように、私達の行動、筋肉運動には、ことばが介在しない運動もありますが、私達の多くの行動にはことばが介在しています。
 
 そもそも、ものごとを認識するとは、世界の様々なものごとに対して、「名前やことば」をくっ付けることだと思います。
 
 仏教の世界では、人間がものごとを認識する過程を、「色受想行識」といったりしますが、特に対象に名称をくっつけることを、「分別」とか「仮説(けせつ)」といいます。
 
 <対象は心によってさまざまな存在として認識されるけど、それは対象自体の力でそのように成立しているのではなく、分別による名称の付与を通じて仮に設定されたものなのだ。このことを、仏教用語で「仮説(けせつ)」という。(チベットの般若心経 春秋社62頁105頁>
 
 このことを、心理学の方面から見てみましょう。
 
 ヴィゴツキー「心理学の危機」52ページからの引用です。

<技術的な道具が労働諸操作の形式を規定することによって、自然適応の過程を変異させるのと同様に、心理的道具もまた、行動の過程に挿入される場合、自らの諸特性によって新しい道具的な作用の構造を規定し、心理的諸機能の全過程・全構造を変異させる。>
 
 難しい表現がされていますが、車の免許を取り、運転するようになると、生活の範囲や内容が大きく変わります。同じように、心理的道具である「言語」の獲得によって、私達の生活のありよう、こころのありようも大きく変わるということです。
 
 「右左」という言葉による区別がなく、「左側通行」という言葉も知らなければ、世界の交通機関は大混乱になるでしょう。このように、人間のことばはものごとを区別し、分別し、行動の規制や拘束をします。

 「疎外」ということばがあります。
 同じ日本人であっても、この疎外ということばを、自分自身の辞書に書き込んでいる人といない人がいることでしょう。小学生低学年の子供で、自分内部の辞書に書き込んでいる人は、ほとんどいないと思います。大人でも、すべての人が書き込んでいるかどうかわかりません。
 一応書き込んでいても、内言となっている人といない人がいることでしょう。「内言となっている」とは、ただ知っているだけでなく、自分の思考の道具として使う言葉、自分の行動を拘束することばになっていることばのことです。
 例えば、「今から私がしようとしていることは、相手への疎外となっていないだろうか?相手を自分の目的達成のための道具にしていないだろうか?」「疎外することは止めよう。」と自分のはっきりした意味付けをもって使うことばのことです。

 私達は、単に反射によってではなく、文章化された様々な人生訓、ルールに従って行動を選択し、自らを拘束しています。

 「目には目を、歯には歯を」という言葉の捉え方は色々あると思いますが、例えば、
 「倍返しのような過剰な報復を禁じ、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐ」という意味であったり、単純に「やられたらやり返せ」という意味であったりします。

 近代社会の経済においては、「等価交換」「同等、対等の交換」が建前上、基本であったりしますが、「同等、対等」ということばが、喧嘩の場合にも適用し使っていたりして、より対抗的、敵対的な関係へと増幅させることになったりします。
 
「今からしようと思っている発言は、相手を思ってのことだ、少々きつくてもここは言うべきだ。」とか「あいつは敵だ。あいつは間違っている。今言われたことに対して、黙っていては、負けや過ちを認めることになる。ここは反論しよう。」と、いった具合に、心理的道具である「ことば」は、私達の行動の選択肢を、拘束します。
 
 ソシュールは、対象と名称の結びつきは、「恣意的」であると言いました。これは、構造主義のものの見方の基本となっています。結びつきが恣意的であるからこそ、それが苦しみの解決に結びつくわけです。それと同じことをはるか昔に、仏教の認識論は「仮説(けせつ)」として語っています。
 
 他の所でも何度も引用している、「チベットの般若心経」から、ここでも引用します。
 
<「私の敵である彼」という存在が成立しているのは、私の心がそのような名前を書いた名札を貼ったことに依存している。事実、彼が敵であることは、万人の共通認識ではないはずだ。彼自身がいかなる状態で存在しようとも―彼の側で私を敵視していることが明らかだとしても―私の心がそうした名札を貼らない限り、彼は私の敵とはなりえない。
 この場合、「名札を貼る」という比喩的な表現は、必ずしも「恣意的に価値判断を下す」というような悪い意味ではなく、心が対象に名称などを付与する認識プロセスを指している。我々の分別の心は―味方や敵といった善悪の価値を伴う場合だけでなく―いかなる存在を対象とするにせよ、名札を貼る過程を経ずに成り立たせることができない。
 つまり、対象は心によってさまざまな存在として認識されるけど、それは対象自体の力でそのように成立しているのではなく、分別による名称の付与を通じて仮に設定されたものなのだ。このことを、仏教用語で「仮説(けせつ)」という。
今の例の場合、彼の敵対行為を主な因として、私は「敵」という名札を貼ったことになる。しかし、その代わりに、「彼は、煩悩によって悪業を重ね、未来に大きな苦しみを体験しなければならない」という思いから、「慈悲の対象」という名札を貼ることもできる。あるいは、「彼の敵対行為のお陰で、忍辱の修行ができる」という思いから、「上師にも等しい有り難い存在」という名札を貼ることもできるのだ。>62頁

 更に、以下のような解説が96頁にあります。

< 理論的に分析するならば、我々が怒りや執着を向けている本当の対象は、相手やその効果的作用の上に付加された実体性(自性)である。そのような自性は、勝義のみならず世俗の次元でも、全く存在しないものだ。つまり、相手や効果的作用には、それ自身の側で成立している固有の性質(自相)がなく、そのように自相がないのであれば、怒ったり執着すべき要素はどこにも見出せない。しかし、現実に煩悩が発生している局面で、世俗有である効果的作用と、世俗無である自性・自相を区別するのは、容易なことでないだろう。
 煩悩の発生を完全に抑え込むためには、この両者を心底から実感する必要がある。そのためには、日常の効果的作用をはるかに上回るような、空性の強烈な直接体験を得なければならない。>
< いま我々が、空性を現量によって認識できなくても、比量によって理解した空性を諸縁として修習を重ねるとき、こうした強烈な空の印象を疑似体験すべく反復して努力するなら、不完全ながらも煩悩を少しずつ弱めていくことは可能だろう。>

 「修習」とは、仏教で言う六波羅蜜、布施、持戒、忍辱、精進、禅定(瞑想)、智慧、を真面目に実践する、あるいは、キリスト経の、山上の説教の実践です。
 
 内言によって、文章を書くこと、思考すること、瞑想すること、自分の信じる道を実践することだと思います。
 
 人間は一生、成長を続けるものだと思います。またそれが仕事であるとも思います。