過去を参照すれど、過去にとらわれないように

k1s2011-11-27

 私たちが何らかの行動を起こすとき、つまり、「現在の状況」を評価判断し、そこから「未来の出来事や状況」を予測し、未来が、「自分の理想や目標や予定」になるべく近づくよう「対処」するにあたって、「過去の体験、出来事」を参照し、多くの場合、遺伝的や文化的に制限された選択肢のうちから選んで行動することは、心理学者をはじめとする諸々の科学者や宗教家の解説を待つまでもなく、誰もが行っていることで、それぞれの経験に照らし合わせて、そのとおりと頷けることだと思います。

 ですので、「投影」とか「転移」とか「逆転移」という言葉で、ある人々が説明しようとしていることは、よく観察されることなのでしょう。
 
 しかし、「ある人物像をとらえるとき、ある人の現在の行動に対して、過去の誰かを投影してしまう、それが人間関係の苦しみの原因だ」という説明は、とても大雑把な説明であるように思えてしまいます。
 
 確かに、初対面の人と接するときなど、顔や服装、立ち居振る舞いや行動から、過去に出会った人と比べ、その人となり、性格などを推量したり、レッテルを張ったりします。
 
 この「レッテルを張る」という行為において、人それぞれの階層性や自覚性があるように思います。
 
 例えば、「テーブルの上に何やら大人のこぶし大の赤い果物があります。」という発言を聞くと、多くの人は、「リンゴかな?」と思うのではないでしょうか。
 
 そこでもうそれ以上のレッテルを張ることをやめてしまう人もいれば、「あかね」「旭」「かおり」「紅玉」「スターキングデリシャス」「新世界」などのうちどれだろう、とさらに細かく分類する人もいます。また、新世界というリンゴにしても、いつどこで収穫されたかで、どのような環境・文脈で食べたかによって、さらに味も違うだろうなと思う人もいるでしょう。
 
 名札に対してその名札に対応した揺るぎない実体があると捉える人と、名札とその中身の関係は、恣意的である、構成的であると捉える人がいると思います。
 
 「あなたが部長を苦手と思ってしまうのは、立ち居振る舞いが、口うるさかったあなたの父ととても似ているからでしょうよ。」ということを話す人がいたとします。
 
 そういっている人は、父に対しても、部長に対しても、ある一面だけをとらえて、一般化し、削除し、歪曲化しているように思うのです。
 
 私たちがものごとを認識するとき、「言語という(デジタルな)道具」を使う以上、「一般化」「削除」「歪曲」は避けられないように思います。

「虹」といえば、日本人の多くは「七色の虹」という言葉とともに、「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」をいうでしょう。しかし、実際の虹のスペクトルは連続していて、はっきりした境界線で7色に分かれている訳ではありません。連続している実際の虹のスペクトルを、言葉でデジタル化しています。

 言葉で情報を伝達するには、このデジタル化、一般化、削除、歪曲は避けられません。

 過去を参照し、投影したり、転移したりあるいは逆転移したりという行為はあるとおもいます。
 
 しかし、人によって、分類においての階層性の差があり、更に実体的にラベルを張る人もいれば、構成的にラベルを張り、自覚している人もいるように思います。
 
 自分の欠点はさておき、他者の欠点を指摘したがる人がいます。それは、自分の欠点と向き合うのが嫌で、それで自分のことを他者に投影しているのだ、という説明は可能でしょう。また、あの人が私のアドバイスを受け入れないのは、自分と向き合うのが嫌だからだ、という説明も可能でしょう。しかし、この説明は、どのような時、どのような目的で使われているのでしょう。

 「この文章も自分を見ないで、他者に投影している」と指摘されそうですね。
 
 原因論とか医学モデルを否定している訳ではありません。ただ、その呪縛はとてもきついと思っています。