ブーバーに学ぶ

連休になって、やっと春らしい気候になったが、心身もやっと春型のからだになってきた感じがする。からだの中で色々なことが芽吹き始めた。

そのきっかけとなったのは、「概説イギリス史」を通して、世界史を学び直していること。どの時代を見ても、そしてこれからも、人間が人間(他者)を自分の欲望の達成のための道具にしてしまう「疎外」があるように感じた。

近現代には、近現代独自の疎外があるだろうが、これらの疎外を解決するにはどうすればいいのか?というテーマから、「我-それ」関係ではなく「我-汝」関係を述べたブーバーを思い出し、以前買っておいて読まずにいた「ブーバーに学ぶ」斉藤啓一著 日本教文社刊 を読み始めた。

この本を読む中で、サバタイ・ツヴィ、ハシディズム、カバラ思想、ユダヤ教の神概念などを知った。

それらを通して私のまったく個人的なライフスタイルの気付きがあった。


私の両親はとても仲が悪かった。
母は母で、心の機微が分かるような人ではなく、父は事情があって、幼いころ一人だけ親兄弟から引き離されて育ち、3歳ころまで立って歩けなかったという生い立ちのある人だった。母の両親もまた、親戚の思惑、資産・経済的な思惑の中で強制的に結婚させられ仲が良くなかったと聞いた。

 ともかく、そんな生い立ちの父母のもとで育ち、世の中では一般的に「母」という言葉を、無条件に肯定的な内容を含んだ言葉として扱うことが多いが、私の場合「母」という言葉から、実際の自分の母を思い出してしまい、無条件に肯定的なイメージは持てなかった。
 
 思春期以来、そのことを自覚して生きてきたわけだけど、「父」という言葉に対しても、素直に肯定的なイメージを持てずに生きてきたのだ、それ以上に、無関心に生きてきたのだ、ということを、ブーバーの本を読んでいて、はたと気がついた。
 
 私の父自身、三人の子供の父親となって、父として具体的にどう接していいのか、モデルのないまま父になったように思う。それで、一緒に暮らしてはいても、どう父親役を果たせばいいのか、あまり意識出来なかったのだと思う。
 
 私も、人間であり、男であり、夫であり、父親であり、経営者であり、末っ子であり、弟であり、その他もろもろである。
 
 末っ子や弟であることは、努力せずともそれを生きることが出来たが、人間や男や夫や父親は、それをこの世で演じるには、モデルが必要であるように思う。戸籍上は、男であり、夫であり、父親であるかもしれないが、演じ切れていなかったことを、今になって気がついた。
 
 子供たちに対して、「優しくて色々なことを受け入れる寛容な父」であろうとしていたと思う。「厳しくても冷たくない暖かい父親」というイメージが持てなくて、厳しいということに関しては、それが冷たい厳しさか暖かい厳しさか識別する意識そのもの、イメージそのものが無くて、即否定していたように思う。
 
 自分だけでなく、連れ合いが子供たちに厳しさを見せた時、それが冷たい厳しさか、暖かい厳しさかその差異を見出すことなく否定していたように思う。