花の世に無官の狐鳴きにけり 一茶

k1s2013-02-26

2月23日土曜日に、みくまの支援学校で行われた発達セミナー講演会に行ってきました。
演題は、「ホントのねがいをつかむ 自閉症児を育む実践」
講師は、佐藤比呂二氏(東京都立特別支援学校教諭)でした。
 
普段、自閉症と診断された人と接する機会のない私には、見ること聞くこと初めてのことばかりでした。
 
ですから、講演の初めから終わりまで、すべて印象的でしたが、講演後反芻したことがあります。
 
会場で頂いたレジメの中に、こういう文章があります。
 
< 自傷や破壊行為はできる限り阻止する やってしまったら後でダメな自分を感じてしまうから。止めるときはさりげなく 「ダメな自分」と感じさせないように細心の注意を払う。 >
 
自傷や破壊行為を阻止するには、生半可な力では阻止できません。腕力が必要です。だからと言って、腕力で抑えつけてしまうと、その子は「自信」を無くします。元々、いけないこととわかっていても、自分でも止められない自傷や破壊行為です。
 
また
< パニックを不適切なコミュニケーションの手段にさせない >
ともあります。
 
自分自身の子育てや対人関係を振り返ってみると
相手が間違っている、私の方が正しいと感じたときほど、
力で相手を押さえつけてきたように思います。
対象となる行為行動は、「力」で止まったのですが、
きっと相手は、そのことで自信を削がれていたことでしょう。
(その一方で、敵愾心を増幅したかもしれません。)
 
私の方に「義」があれば、あるいは「愛」があれば、
(その行為の結果がどうあれ)
「義」や「愛」に基づく行為はゆるされると思い込んでいたところがあります。
後は、相手の理解力の問題、受け取る側の受け取り能力の問題と思い込んでいたところがあります。
 
「義」や「愛」は、個人の内側に<ある>のではなく
「関係」の中で<生まれる>のだと思います。
 
自分の行為によって、相手の行動や思考や感情に何が生まれたか、
そして、相手のそれを見、受け取ることによって、自分の中に何が生まれたか。
 
外から見える行為が止まったとしても、その内側で自信を削っていたら
勇気挫きをしていたら、それは愛などと言えません。
 
「愛」が届いていないのではなく、最初から生まれていなかったのだと思います。
 
花の世に無官の狐鳴きにけり 一茶