議論から対話へ

「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。」と、原始仏典(法句経)にあります。老子最澄蒋介石の言葉として紹介されることもあります。確かに、これは正論です。
怨みに怨みを以てすれば、怨みが尽きないから、耐えなさい、あるいは、徳を以てしなさい、と牧師や僧侶、正論家は言われます。
     

 しかし、現実日常生活においてはどうでしょう。
こちらに身に覚えのあることならば、謝るか、しらを切るかであって、怨みに怨みを以てすることはないと思います。身に覚えのないこと、間違ってはいないと思うことに対して、怨みや怒り、批判が来ると、私達は反射的に、自分を守り、反論、反攻したりします。
    
 相手だって同じで、自分に義があると思うから、攻撃や批判をするのでしょう。
 争いになった後で、もっと別の対応はなかったか、と反省します。その繰り返し。


 「怨みに怨みを以てせず、耐えよ、徳を以てせよ」という言葉は、正論としてはわかるけど、私には無理がありました。耐えるにしろ、徳を以てするにせよ、お互いに自分が正しい、自分に義があると思っていることは変わっていないので、バランスが崩れたり、虫の居所が悪かったりすると、いとも簡単に怨みや怒りに変わったりします。


 古代ヘブライ思想では、耐えるのでもなく、徳を以てするのでもなく、そういう時は、自分と相手に質問するようです。この怨みの根拠、義の根拠は何処にあるのか、と。
「あなた(私)は、私(あなた)に対して怒っていると私は感じたのですが、あなた(私)は怒っていますか?怒っているとしたら、その理由や根拠は何ですか?」と、対話を続けること。


 常日頃から、己の理性・知性・判断力の限界、理想を求めるが故の劣等感などを理解しておくことが大切のようにおもいます。