二元論の克服 全体論

釈尊全体論 <相依性>
ブーバーの全体論 <我と汝>
グレゴリーベイトソン全体論 <『精神』の生態学
アドラー全体論 <対人関係論、目的論>
複雑系学者の全体論 <フラクタル><創発
そして多くのロマンチスト(反合理主義)、ネオロマンチスト(脱合理主義)たちの全体論
   
この世に生まれ、この世の言葉を使い始める以前は、世界を一つの全体として生きていたのではなかったかと思う。
  
この世の言葉を使い始めることによって、世界を部分に分けることが始まった。そして、世界を一つの全体として生きていたことを忘れていったのではなかろうか?
  
一つの全体と生きていたことへの遠い記憶、憧憬、ロマンチシズム
   
 この世の言葉を使うことによって、世界はばらばらの個物(実体)の集まりとなった。
 人間は自然とは違う個物になり、人間も精神(理性)と肉体に分かれていった。
命は生と死に別れ、どちらも恐るべきものとなった。
神(一つの全体)を対象化し、偶像化し、やがて人や物を偶像神とするようになった。
 
かといって、言葉や理性を捨てる訳にもいかない
 
小田垣雅也氏の著作「現代のキリスト教」からの引用
 
<元来、二元論とは区別の原理であり、その区別の認識は人間の理性の所業なのである。だから二元論的に人間に対向した神とは、人間によってそのように把握された神であり、それは本当の神ではない。テルトゥリアーヌやアウグスティーヌスが信仰は理性に優先するという場合、その本意はわれわれが考えがちなように、理性と信仰という二元論の枠を前提し、その枠の中で信仰を優先させよといっているわけではない。このことは厳密に把握しておくべきである。もし信仰と理性という二元論の枠を前提とし、その枠の中で信仰の優先を主張する場合、その信仰は理性を無視した、迷信と同じになる。問題は理性による二元論的世界観とは別の新しい現実の開示ということであり、そういう意味での「上から」の信仰をこの人々は発見したのであった。>(講談社学術文庫26頁)
 
青年期に出会ったヘルマン・ヘッセの「デミアン」「荒野の狼」以来、二元論の克服を探してきました。公理系とか価値の相対性とか観察の理論負荷性とか言語の階層性に出会いましたが、それでも理性重視で生きてきました。
「理性」のたどるべきひとつの道は、その理性の限界を自覚することだと思います。
 
青年期には、あらゆる限界を超越し一切において迷わなくなることを求めていましたが、今は問いかけと迷いの中にこそ人生があると思っています。