疎外

 1954年(昭和29年)生まれの私が、「疎外」ということばに「出会った」のは、いつ頃だったろうか?


 高校生の頃、少し年上の、団塊の世代全共闘世代(おおよそ1940〜1949年生まれの人々)が、疎外ということばを使っていて、ことばとしては聞き「知って」いたけれど、意味がよくわからず、私自身の言葉として出会ったのは、それからあとのこと。

 団塊の世代の人であっても、「仲間外れ」という意味で使っても、哲学的、経済学的、心理学的な意味の「疎外」ということばに出会っていない人も多くいると思います。 本、あるいはインターネット上の辞書で、調べてみても、なにやら難しい言葉が並んでいます。


 私が私の言葉で疎外を定義すれば、「人生を目的と手段に分け、この世界のなにもかもを手段として生きてしまうこと」を、疎外といっています。


 例えば、仕事、労働。 労働が、単に生活費を稼ぐための手段になってしまえば、それは疎外です。 私自身、そのような労働もしてきました。
 何かを学習する場合も、肩書をつけるための学習なら、それは私にとっては疎外です。 高校生の頃の受験勉強は、私にとって、ほとんどが疎外だったように思います。
瞑想も、悟りを得るための手段として行えば、「疎外」です。
「利子」というものに何の疑いを持たないことも、疎外です。
お腹を満たすだけの食事は疎外です。
ヒトに自慢するために恋人を選ぶなら、それも疎外です。
自分自身を、精神と肉体に分け、肉体を精神が望む目的達成のための手段・道具として見るなら、疎外です。
フェイスブックにしても、それが何かの手段だけになってしまえば、疎外です。
エーリッヒ・フロムが言うように、偶像崇拝は疎外です。
言語は、偶像でもあります。名前は、名づけられたものではありません。
死を忘れるために、忙しくしたり、たくさんのものを所有したり、興奮を求めるのも疎外です。


うっかり暮らしていると、自分が疎外の中にいることに鈍感になります。 私はしばしば、その中にいます。


要素論に立つ限り、疎外からは抜けられないように思っています。