「生(あ)る」は、疎外しないこと

拝復 ○○ 様 お手紙拝読いたしました。

 ○○さんが、私に対して抱く「違和感」、これは○○さんだけに限らず多くの人が抱くであろう違和感と思っています。 そして、その由来も自分なりには、自覚しています。
 
 その由来のひとつは、「世界観・世界仮説」の違いです。

 日本語であれ、英語、フランス語、中国語であれ、私たちはことばを使って、考え事をします。会話、対話をします。そのことばは、音が集まって、単語となり、単語が集まって文章(主語+述語)となり、文章が集まって、ひとつの文脈、物語、理論、思想、世界観が生まれます。 今も、この文章もそうです。

 こういった単語、文章、物語をもとに世界を見れば、この世界も、それぞれの「(独立した単語)もの(主語)」の集まりのように見えます。 例えば、今目の机の上に、パソコン、ボールペン、コーヒーカップがあります、と単語、文章で言い表すことできます。 世界は色々な「もの」が集まって出来ているという見方が、要素論であり、機械的世界観であり、素朴実在論だとおもいます。 そして多くの人が持っている常識的世界観です。 近代以後は特にそうでした。

 端的に言えば、私は私自身を、(独立した)「もの」ではなく(世界内)「現象(の束)」だと思っています。
 
 いつも、宮沢賢治の詩を唱えています。
「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。」
 その現象は、宇宙全体(無限の縁)が抱く無数の無限の夢の一つの現れ、花、光りと思っています。 
 こういうのを、世界内存在(ハイデッガー)とか、汎在内神論(井上洋治神父)というのであろうと思っています。(あるいは、神秘主義、異端・・・・)

 お手紙に「自己実現、自分の計画、自己満足…という自己の夢を諦め、キリストに見倣って、神の(秘められた)計画実現の人生に参加する方向に切り換えませんか」と書かれていましたね。

 私は、これまで二度、死にかけたことがあり、耐えきれない痛みの中ででもぎりぎりまで「なにがあっても生きていたい」という強烈な意志と共にありましたが、ある一線を越えると、その根源的な生きていたいという意志、力をも諦める世界があることを知りました。
 
 と同時に、そこでは、「ねばならない」が一切ない世界でした。

 ねばならないが一切ない何をしてもいい世界を知ると、ヒトは限りない欲望追究に走るかといえば、そうではないと思っています。
 
 肉体はそのまま残っているのですから、肉体を維持するためには、最低限のもの・ごと(栄養素)を摂取しなくてはなりません。 少なく頂いて、そこからたくさんお返しする、それが二度の臨死体験の後の自分の生き方です。
 
 とはいえ、うかうか暮らしていると、ねばならないが一切ない世界のことを忘れてしまいます。
 
 この世界、時空間を目的と手段に分け、今この時、この場所、目の前の人を、自分の目的達成(偶像崇拝)のための手段にしてしまいがちになります。 それが「疎外」なのではないでしょうか。

 例え、立派な計画や目標であったとしても、今ここを、この場を、ひとを、その計画の手段にしてしまうと、そこは虚無、非生、無生、否生となるということを味わってきました。

 息は浅くなり、速くなり、相手を評価したり、心ここにあらずで、ちっとも今ここを生きていなくて、それでいてそのことの自覚が薄らぎます。
 
 私は、これまで2度(+α)の臨死体験がありましたが、ヒトは必ず一度は体験しますね。
 
 でも一線を越える体験、すべてを諦め、受け入れる体験は、しようと思ってできるものでもないなあ、
ヒトにお勧めできるものでもないなあ と思っています。
 
 せいぜい、自ら息をゆったりして、今目の前の人と、一緒に「生(あ)る」「しかある(然)」かどうかを確かめること、ならできるかな、と思っています。
 
 それでも、ついつい相手の息や、世の中の情報の流れに合わせて浅く、速くなりがちです。

 市野々の人里離れた山の中の一軒家へ、仕事場、生活の場を移して、収入は数分の一になりました。 焚くほどは風が持て来る落ち葉かな と良寛さんの俳句を唱えながら暮らしています。 

 でもこの暮らしもまた、あるであろう神の計画の一つではないかと思っています。
 召されたら、従おうとも思っています。 今のところ、好きなようにしなさいという声がします。
                                              敬具