「ある」・「いる」ということばに私がこだわる訳

 ものであれ、生物であれ、あるいは人間であれ、または、出来事であれ、それが実際に存在すること、起こったことを、日本人は「ある」あるいは「いる」ということばで表します。

 「机の上に本がある」「ポチは、犬小屋にいる」「親父さんあるか?(紀州弁)」「昨日、イベントがあった」「昨日、学校でいじめがあった。」などです。 「ある、いる」ということばを、「存在動詞」といいます。
 「ある」と「いる」の使い分けは、時代により、地域や状況により、そして個人によりまちまちです。

「ある」と表現するにしても、あるいは「いる」と表現するにしても、国語の試験ならともかく、日常の会話においては、会話する当事者で、話が通じれば、それでいいのではないかと思っています。

そう思いつつ、「ある・いる」にこだわるのは、例えば「神は存在する」という意味で使おうと思うとき、果たしてその「ある・いる」で言い表せているのか、言い切れるのか、というのが私の問題意識です。

時代によって、地域によって「ある」と「いる」の意味合いが違うことを、言語学者の人が難しい論文を書いています。私がこだわるのは、「ある」と「いる」の違いだけでなく、おなじ「ある」でも、「有る・在る」と「生る」では同じではないだろうということです。 「有る・在る」と「生る」の違いの方が、「ある」と「いる」の違いよりも、難しいことかもしれません。

そもそも。「生る」と書いて「ある」と読める人の割合はどれくらいでしょうか?

私にとって「生る」ということばは、その漢字が示すように、今までになかったものが新たに生まれるという意味合いがあります。
 例えば、「昨日、列車の急停車で怪我人が、五人<あった>。しかし、お医者さんが乗客の中に<いた>ので、応急処置ができた。」という例文がそうです。
怪我人は、事故の発生前にはいませんでした。乗り合わせていたお医者さんは、事故の前からお医者さんでした。事故の発生によって新たにお医者さんになった(生った)わけではありません。

かつては、ニュースを読むアナウンサーの人たちは、そのように使い分けていたようですが、今ではどちらも「いる」を使って表現するそうです。

2017年12月25日の朝日新聞によると、日本語の聖書が31年ぶりに改訂され、使用される言葉も変化します。
私は、キリスト教徒ではありませんが、西洋文化・哲学・宗教を理解するためには聖書読解が大切と思い、時々聖書を読みます。 この度の改訂では、出エジプト記の中にあった「私はある」という表現が「私はいる」に代わることを知りました。 「ある」と「いる」にこだわる私の印象としては、聖書が遠い存在になった感じです。

というのは、これまでは聖書のその部分を、「私は生る。私は生るであろうもの」とよんできたからです。
この世界のどこかに「(一つ二つと数えられる)神が有る・いる」のではなく、「神(すべて)の中に(潜在していた可能性の)すべてが生る」と読んできたからです。

私達は、物のように「有る・在る」「じっとしている」のではなく、新たに生まれ続けると思うからです。

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