自己実現 クルト・ゴールドシュタイン

自己実現」とは、具体的にはどういうことをいうのでしょう?

 辞典を調べてみると、「自己の内に潜在している可能性を最大限に開発し実現して生きること」あるいは、「人生の究極の目標を実現すること」と書いていたりします。

 では、私たちは、自身に潜在する可能性と潜在しない可能性を、どうやって見極めることができるのでしょうか? そして、潜在する可能性を、100%完璧に実現することが、自己実現なのでしょうか? 人生の究極の目標とは、自分の可能性を完璧に実現することでしょうか? 世の中で何かを成し遂げることでしょうか? 自己の可能性と自己を取り巻く環境は、いかなる関係にあるでしょうか? いつもそれは折り合うものでしょうか?(例えば、同性と愛を育むという可能性)

 「自己実現(Self-actualization)とは、もともとは心理学の用語で、ユダヤ系のゲシュタルト心理学者で脳病理学者でもあったクルト・ゴルトシュタイン (Kurt Goldstein) が初めて使った言葉。」(ウィキペディア)だそうです。

  彼の教え子の一人カール・ロジャーズが、これを概念化し、アメリカの心理学者アブラハム・マズローは「欲求段階説(欲求の階層構造)」において、「自己実現の欲求」を5階層の最上位に位置づけた、とあります。

 「実現」ということばを考えるとき、私は、文語の「全き」と口語の「完全」の違いを思います。

 日本語の聖書は、かつて(明治時代から第二次大戦後まで)は文語で書かれていたようです。
 例えば口語訳だと、「あなた方の天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ伝の五章四八節)が、文語訳では「然らば汝らの天の父が全きが如く、汝らも全かれ」となります。

 「人生を全うする」ということばがあるように、本来の自己実現の意味は、文語の「全うすること」のほうと私は思っています。 人間個人はもとより完全でも完璧でもあり得ない、でも人生を全うすることはできると。 なぜなら、不完全なままで、世界内存在であるから。

 完全であろうとするのは、自己実現であるよりむしろ社会適応志向のようにおもいます。

 生きるとは、死ぬとは、世界と自分との関係とは、といったことについての自分の見解を常に研鑽しつつ、その見解に従って人生を全うするのが、自己実現ではないか、と私は思っています。

 自己の中に、可能性が潜在しているのではなく、『世界』の中に潜在している可能性のひとつが「自己」であろう、と。

 宮沢賢治はうたいました。「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。」